令和2(2020)年3月に、京急の駅のいくつかが名称を変更しました。その1つが「新逗子駅」から「逗子・葉山駅」への変更です。長年慣れ親しんだ駅名が変わってしまうのは少し寂しさもありますが、町並みは相変わらずの様子です。
今回はそんな逗子・葉山駅から歩いて行ける史跡を紹介します。
今回のお散歩ルート
逗子・葉山駅から、近代・室町・鎌倉・平安と田越川(たごえがわ)を下りながらタイムスリップしていきます! だいたい20~30分ほどのコースです。
まず逗子・葉山駅北口改札を出て階段を降りて、左へ進みます。



近代:亀岡八幡宮
亀岡八幡宮(かめがおか はちまんぐう)は鎌倉の鶴岡八幡宮に似た名前ですが、いつの頃からあったのかは不明です。この土地が亀の甲羅のようになだらかな丘になっていたことから、鎌倉の鶴岡八幡宮に対して亀岡八幡宮と名付けられたとされています。

社殿は大正12(1923)年2月の創建なので、「近代」へのタイムスリップポイントです。この年、ピンと来た人も多いのではないでしょうか。そう、関東大震災があった年です。新築だったこの社殿はあの揺れに辛うじて耐えたそうです。
元々は駅の反対側にある延命寺(えんめいじ)が管理する神社でしたが、明治時代の神仏分離令によって村の神社となりました。現在でも鶴岡八幡宮のご神体だった阿弥陀三尊は、延命寺に祀られています。
毎年11月に行われる逗子海岸流鏑馬では、この亀岡八幡宮で出陣の儀を行い、武者行列が出発します。また同日に「稚児弓引の儀」と呼ばれる着飾った未就学児が弓を放つ可愛らしい儀式も行われます。
一歩中へ入ると駅前の喧騒から切り離されたかのように静かな空間が広がります。明るい境内は近隣の住民の憩いの場にもなっていて、昔から人々の生活の一部になっていたことが伺えます。
そして……亀岡八幡宮の狛犬がこちら!

三浦半島の狛犬は、なにげに子持ちが多いのですが……見てください、この子狛犬の丸っぷり。親のふさふさっぷりとはまた違った、モフモフまん丸です。
そして……

このご機嫌な亀!! 亀の笑顔から縁起の良さしか伝わってきません!
亀に見守られて参拝を終えたら、駅まで引き返しましょう!
室町時代:延命寺
次に向かうのは、亀岡八幡宮を管理していた寺、「延命寺」です。逗子・葉山駅についたら、反対側へ抜けます。



延命寺
延命寺の縁起
奈良時代の高僧、行基(ぎょうき)が建立し、自らが作った「延命地蔵菩薩座像」を安置したことが始まりです。
平安時代になると空海が行基の地蔵を納める「厨子(ずし)」を設けました。これが「逗子」の由来とされています。鎌倉時代になると、この寺を三浦一族が再建し、祈願寺としました。
そして時は経ち、室町時代。鎌倉時代の三浦の子孫である三浦道寸(みうら どうすん)は、小田原北条氏の祖である伊勢宗瑞(いせ そうずい)こと北条早雲(ほうじょう そううん)に攻められていました。
延命寺には道寸の弟である道香(どうか)が籠り、奮戦しましたが、最後は7人の従者と共に自害しました。「延命寺」で「自害」なんて、なんだか切ないですね……。境内には現在も道香と7人の従者の墓があります。よって、ここは室町時代へのタイムスリップポイントです!
本殿は昭和に建てられたので新しく、境内も整地されていて、見た目から歴史を感じるのはちょっと難しいかもしれませんが……ぜひ想像を膨らませてください!
鎌倉時代:忠臣三浦胤義遺児碑
延命寺を後にして、駅にちょっと戻りましょう。そして橋を渡る手前で左に曲がります。


ちなみにここは車通りが多いので、十分気をつけましょう。橋を渡って川沿いを左に進むと、すぐに駐車場があります。そこに「忠臣三浦胤義遺児碑(ちゅうしん みうら たねよし いじの ひ)」があります。
三浦胤義と承久の乱
三浦胤義は鎌倉時代初期に活躍した御家人です。先祖代々、源氏の家人である三浦一族。その長の弟として鎌倉幕府に仕えていました。
しかし建保7(1219)年1月27日、3代目将軍の源実朝(みなもとの さねとも)が暗殺された後、執権(しっけん)北条義時(ほうじょう よしとき)は権力を握ります。
摂関家の三寅(みとら)という数え2歳の男の子を将軍候補として迎え入れ、将軍候補として育て、幼い将軍の代わりとして政治を行いました。それだけでなく義時は次々と源氏の血筋である男子を暗殺していました。
実は、三浦胤義の妻は、2代目将軍・頼家(よりいえ)の側室で、頼家との間に男児を産んでいました。男児は出家して禅暁(ぜんぎょう)と名乗っていたのですが、北条の手によって禅暁も殺されてしまいます。
嘆き悲しんだ妻を見て、胤義は北条への復讐を決意して京都へ行き、後鳥羽上皇から義時追討の院宣(いんぜん=上皇の命令書)をもらい、承久の乱で宮方として戦いました。
三浦胤義と子どもたち
結果から言ってしまえば、承久の乱で宮方は敗けて、後鳥羽院は隠岐に流されました。そして胤義も自害します。残された胤義の子どもたちは、この田越川沿いで処刑されたと言われています。
でも実はこれは物語である『承久記(じょうきゅうき)』の中でのエピソードであり、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』には書かれていません。実際は胤義の子どもたちは処刑されずに、その後も『吾妻鏡』に登場します。
しかし戦前は文学と歴史の境が曖昧でした。胤義遺児の処刑の話は多くの人の涙を誘いました。その1人が大正時代に田越川沿いに住んでいた石橋敏明氏です。彼はこのエピソードを哀れんで、なんと自分の家の玄関先に石碑を立てました。
それが、駐車場となってもここに建てられたままの『忠臣三浦胤義碑』です。

「忠臣」となっているのは、いわゆる戦前の「皇国史観」からで、天皇側で戦ったので「忠臣」とされています。でも実際は天皇の為というよりは妻の為、源氏の為に戦ったのではないかなと、個人的には思います。だからこれは今では「源氏の忠臣」三浦胤義だと個人的に心の中で思っています。
平安時代:六代御前の墓
次はまた、田越川沿いにてくてくと歩いていきましょう。実はこの田越川、源頼朝も散歩したという記録があります。

今回取材したのは梅雨の晴れ間の田越川で、蒸し暑さを薙ぐ川の風が涼しかったです。春には川沿いに桜が咲き、秋は紅葉も楽しめます。大通りや商店街側と打って変わって、川沿いは人通りも少なく静かで、穴場お散歩スポットです。
赤い橋、白い橋を通り過ぎて、行き止まりにある茶色い橋を渡り、その先にある大きな橋(田越橋)を通りすぎると、「六代御前(ろくだいごぜん)まえ」というバス停があります。そこを左にまがりましょう。

その奥にある小さな丘が、六代御前の墓です。

平家最後の御曹司、六代御前
寿永4(1185)年3月。壇ノ浦の戦いで平家は滅び、ある者は捕らえられて処刑され、ある者は入水して自害しました。しかし唯一、鎌倉時代まで生き延びた男の子がいました。それが六代御前です。
しかも六代御前の父は、平維盛(たいらの これもり)。平清盛の嫡男の長男。つまり平家の嫡流です。そんな彼が何故鎌倉時代まで生き延びる事ができたかというと……。
平家が京都から脱出して西へと逃げる時のこと。維盛は都の生活に慣れしたしんだ妻を、明日をも分からない暮しに連れて行くのが忍びないと思い、妻と幼い六代を京都に置いていく決意をします。妻には「もし自分に何かあったら再婚してくれ」と言い残しました。
維盛の妻と六代は、ずっと京都の寺に身を隠していましたが、壇ノ浦の戦いのあとついに鎌倉幕府に捕らえられてしまいました。本来なら平家の嫡流の男子ですから、斬首されるところです。しかし周囲の助命嘆願が通って、出家を条件に命は助けられました。
実際に出家した六代は、僧侶となって頼朝の元を訪れています。しかし頼朝の死後、新たに将軍となった頼家の代の時に、六代は逗子の田越川で処刑されたとされています。

しかし六代御前の処刑については謎が多く、処刑された年代や場所は諸説があり、その理由も不明で、実は処刑の話自体が創作なのではないかという説まであります。
でも、逗子の人々がこの六代御前の話に同情し、現在も大切に供養していることは、墓の様子から伺えます。

そして再び逗子・葉山駅へ
帰りのルートは六代御前まえからバス……でも行けますが、むしろ歩いていくのもそう時間は変わりません。場合によっては歩いた方が早いです。
田越橋まで戻って橋を渡り、Misaki Donutsを右に曲がれば逗子・葉山駅の南口改札に到着します。
ちなみにこの「Misaki Donuts」、本店は三浦市の三崎港にある、人気の高いドーナツ屋さんです。イートインでほっと一息もよし、お土産にテイクアウトしてもよし。帰る前にぷらっと寄ってみましょう!
