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【JR田浦】横須賀じゃなければスイングはない? 「戦後ジャズ発祥の地」説はどこから来たのか

ジャズと横須賀のお話をしようと思います。しかし横須賀以外の話もたくさんするので、読むのに時間がかかるかもしれません。そこでまずおともの音楽を。

エド・サリバン・ショーでのルイ・アームストロング

横須賀でも演奏したことのあるルイ・アームストロングのプレイリストをどうぞ。再生ボタンをぽちっとしてから読むと気分が上がると思います。

今回も(未だ県外からの移動を自粛しているため)実際のお散歩なしの調べごと記事です(すみません!)。ではどうしてタイトルに「田浦」がついているのか? それはおいおいご確認くださいね。

ジャズのルーツを取り合う港湾都市たち

横須賀市内にちらほら点在する「ジャズっぽい」雰囲気。なんなのかなあと思いながらも普段はあまり気にしないわけですが、横須賀市としてはもう少し気にしてほしいみたいです。「横須賀は戦後にジャズが発祥した地」という説がありますが、これもプロモーションの一環のようです

そう言われてしまうと、ほんとに横須賀がジャズ発祥の地なのか気になります。どうだったんでしょう。

横須賀・横浜・神戸・大阪

それでは突然ですが、以下の四つのツイートをご紹介します。

「横須賀は戦後ジャズ発祥の街といわれています」
「JAZZ:発祥の地・横浜10店が「スタンプラリー」開催」
「国内のジャズ発祥地としての魅力をさらにPRしていこう」
「ミナミはJAZZ発祥の地!」

横須賀・横浜・神戸・大阪。どういうわけだか、国内の港湾都市がジャズ発祥の地をそれぞれに主張しているんです 1。これは不思議ですよね。

2021年現在、横須賀で暮らしていて生活の中でジャズを意識することはあまりないのではないでしょうか。20年ほど前の話ですが、当時「ジャズを聴いてみよう!」と思ったものの身近で聴く機会はほぼありませんでした。そのため10代でお金のなかったわたしはレンタルCDや100円ショップのCDに頼るはめになりました。今も状況はそう大して変わらないでしょう。

ではどうして横須賀が「ジャズの街」でありえるんでしょうか? 「戦後ジャズ発祥の地」、ほんとう? 横浜とか、神戸、大阪ではなく? 現在残っている資料から、わかる範囲で当時の様子を探ってみたいと思います 2

市役所前公園の喫煙所

ちなみに結論から先にお伝えしておくと、横須賀を「戦後ジャズ発祥の地」と呼ぶのはかなり無理があるのではないかというのが現在の考えです。しかし「横須賀がジャズの街ではなかった」と言いたいわけではありません。むしろ逆で、記録を紐解いていくと横須賀の街中にはたしかに生き生きとした音楽シーンがあったことが見えてきます。

音楽に限らず、文化はそれを楽しんだり、みずから作り出したり、広めたりする人間がいて初めて成立するものです。発祥の地かどうかはむしろ些末なことで、どうやってジャズが演奏されて、聴かれたり聴かれなかったりして、まちの中にあったのか、ということのほうがずっと気になります。横須賀でジャズにかかわったりあまりかかわらなかったりした人たちの厚みこそが、横須賀をジャズの街にしたり、しなかったりするんじゃないでしょうか。

戦後ジャズ横須賀発祥説

さて、「横須賀が戦後ジャズ発祥の地だ」という説は横須賀市のTwitter以外にも見られます。大手メディアだと、日経スタイルに掲載された一般社団法人「ヨコスカ ジャズ協会」の方のインタビューに以下のような記述が。

45年9月、市内にあった旧海軍兵員宿舎が米兵向けクラブの国内第1号となり、ジャズ演奏が行われた。ここを起点に、横須賀はジャズの街として栄えていく。

横須賀、スイングの街再び 往時目指しジャズフェス|NIKKEI STYLE

このお話の典拠となったと考えられるのが、神奈川新聞社から出版された『ヨコスカ・ジャズ物語』です。

Googleブックスでも一部を読むことができますので該当箇所を確認してみましょう。

終戦の年の九月というのは、当時の記録の中で最も早い時期に当たり、戦後日本のジャズの一番最初の音は、実にここ田浦の海軍兵員集会所のクラブからスタートしていると言える(p.48)

終戦の年、昭和二十年(一九四五年)の九月には早くも田浦にあった、旧海軍兵員集会所の米軍接収第一号といえるクラブで、戦後ジャズの第一音とも言えるドラムを叩いた方(p.57)

井上東七という方で、(略)終戦の年の九月に田浦の兵・下士官集会所で、戦後一番早く横須賀ジャズの第一音を出されたグループの一員(p.59)

ヨコスカ・ジャズ物語: 霧につつまれた栄光の軌跡 – 稔·太田 – Google ブックス

「スタートしていると言える」「戦後ジャズの第一音とも言える」「横須賀ジャズの第一音を」と、断言しない、もしくはエリアを横須賀の中だけに絞った書き方で「戦後のジャズ発祥は横須賀だったといえる」という主張です。

さて、それでは実際のところはどうだったんでしょう。ちょっと回りくどくなってしまいますが、「戦後」「最初」「ジャズ」それぞれのキーワードから考えていきます。

「戦後」以前のジャズ

横須賀中央駅前Yデッキ

これは有名な話ですが、第二次世界大戦中、とくに日米開戦後はアメリカ・イギリスをはじめとする連合国側をルーツとする文化が禁じられていました。ジャズももちろんそうです。それまでに国内に豊かにあったジャズ文化は、1940年代に一度完全に途切れてしまった、というのが「戦後ジャズ」というくくりに込められた意味です。

戦中唯一ジャズが鳴っていた場所

しかし戦中にもジャズが鳴っていた場所があります。なんとNHKなんです。当時日本はアメリカ兵に向けて「戦意を喪失させるため」に娯楽のラジオ放送を行っていました。「日の丸アワー」という名前で、敗戦前日の8月14日まで放送がつづけられたそうです。

日の丸アワーにはジャズのコーナーがあり、大手レコード会社であるコロムビア所属のミュージシャンなどが演奏に参加していました。ジャズミュージシャンにとっては国内にあるほぼ唯一の仕事だったようです 3

日の丸アワーミュージシャンの戦後

敗戦によって日の丸アワーの放送が終了したあと、メンバーたちは9月中には「ニュー・パシフィック・バンド」というバンドを結成しました。実際にステージに立ったのは10月以降ですが、敗戦後も休まずバンド活動を続けていたことが『日本のジャズ史 戦前戦後』に書かれていました 4

日本各地でジャズが死に絶えていたなか、東京にはジャズの仕事があった。そう考えるとどうでしょう。戦後最初にジャズが鳴ったのも、東京だったんじゃないかな? そう思えてきました。実際のところはどうだったんでしょう。

戦後「最初」のクラブ

大滝町の「ジャズの人」

『ヨコスカ・ジャズ物語』のなかにはふたつの「最初」が出てきます。ひとつ目は「戦後ジャズの最初」もうひとつは「米軍の接収クラブの最初」です。ジャズはいったんおいておいて、米軍クラブのほうを先に見ていきましょう。当時の公文書、およびアメリカ軍の新聞である「星条旗新聞」、それにアメリカの大手紙「ニューヨークタイムズ」から情報を探しています。ちなみに飲食と音楽などを提供する娯楽施設をまとめて当時「クラブ」と呼んでいたようなので、細かい業態は問わずに考えています。

東京:RAA

東京ではRAAという組織がいちはやく進駐軍属向けの娯楽施設を作りました。RAAは業務内容を隠した求人で女性を集め、性産業に従事させたことがよく知られています 5

一方でRAAは性的な接待を伴わない業態も展開していました。「星条旗新聞」によると、少なくとも1945年9月15日より以前に東京でビアホールが開業しています。15日にはキャバレーを一ヶ所、20日までには複数の店舗を開業する予定だと報じられていました 6

ちなみにRAAと進駐軍向け娯楽提供方法の変遷については記事末尾で紹介していますので、ご興味のある方は併せてお読みください。

暫定的な結論:東京で最初のクラブは遅くて9月15日開業

鎌倉:海浜ホテル

資料を見ていると、つづいて候補に挙がってきたのはなんと鎌倉でした。9月2日、日本が降伏文書に調印した直後、調印に立ち会ったニミッツ海軍元帥が鎌倉にある「海浜ホテル」を訪れ、「ここを高級将校向けのクラブにするから準備するように」と命令して帰って行ったことが報告されています 7

このことを報告したのは国によって設置された「終戦連絡委員会」の横須賀支部で、報告者は外務省から派遣された外交官です。敗戦直後の混乱の中で政府と進駐軍の板挟みになりながら現地業務に当たった終戦連絡委員会。こちらについても記事末尾で紹介しています。

さて、海浜ホテルです。ニミッツ元帥によって高級将校クラブに指名されたあと、遅くとも9月15日までには将校の滞在が始まっていたことが『めぐりあうものたちの群像』に記載されています8

暫定的な結論:鎌倉で最初のクラブは9月2〜15日の間に開業

横浜:赤十字横浜クラブと劇場

それでは横須賀のお隣で、かつジャズ発祥の地を(ある意味で)争いあっている横浜はどうでしょうか。星条旗新聞によると、1945年9月19日に赤十字がクラブを開業しています 9

また、これとは別の施設と思われるものとして、劇場もオープンしています。当日の様子を9月30日にAPが配信し、翌日ニューヨークタイムズが掲載しています10。日付が明確に記されていないこちらの施設は30日よりも前にオープンしていた可能性もあります。

暫定的な結論:横浜では9月19日と30日にクラブがオープン

横須賀:田浦の下士官集会所

横須賀上陸直前のアメリカ合衆国第一沿岸警備隊。出典:アメリカ公文書館

最後に横須賀を見ていきましょう。日付がわからないながら、田浦にあった下士官集会所と思われる施設11の使用権を得た日本人が、1945年9月のうちにキャバレーの営業を始めました。『日本の洋楽2』に掲載された、当時横須賀にいたミュージシャンの証言なのでほぼ間違いないでしょう12

では9月のいつごろなのか、範囲を狭めてみましょう。先ほど紹介した終戦連絡委員会の報告書が役に立ちます。横須賀側は進駐軍の来港に先だって安浦と船越エリアに「安浦ハウス」という慰安所を設けていました。9月6日には安浦ハウスで働く女性がアメリカ兵と連れだって街中を歩いていたということが報告されています13

しかしここで働く女性たちには梅毒をはじめとした性病が蔓延しているとして、進駐軍は9月14日までには兵士の立ち入りを禁止してしまいます。このくだりを終戦連絡委員会の報告書から抜粋してみましょう。漢字は旧字体を新字体に変え、外来語等以外のカタカナをひらがなに変えています。わたしが読みとれなかった部分は●で示しています。

(二十四)上陸米兵の慰安施設としては●に船越遊郭及旧安浦遊郭を「安浦ハウス」として開業せしめたる処酌婦に花柳病多き為めと称し米側に於て九月十四日より兵員の出入り禁止することとなり業者に於ては営業継続困難となりしのみならず●●市内の治安に大なる不安を生ずるに到りたる為め検黴、注射其の他衛生設備の浄化等を計ると共に他面「ビアホール」又は運動施設等の娯楽機関の設置方提案ありたるも当市に於ては「ビール」の業務用「ストック」無きのみならず我方の拙劣なる施設より寧ろ米側に任すべきとの意見に一致せり

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B17070004200、連合軍の本土進駐並びに軍政関係一件 軍政関係(米国の対日一般方針及び政策を含む) 第3巻(A’.1.0.0.2-1_003)(外務省外交史料館)」4.軍政一般(つづき)/3)各地方軍政状況報告関係/分割1(0076)

「性的接待をさせて治安維持を」という発想がここにも見られます(腹立ちますね)。そして後半には、「ビアホールか運動施設を作ってもらえないか」というアメリカ軍側からの依頼があったことが書かれています。しかし横須賀の終戦連絡委員会側は「物資不足でビールの在庫がないし、こちらが作っても満足いただけるかわからないのでそういうのはそちらにお任せします」と答えています。

田浦の下士官集会所にキャバレーを作るようアメリカ軍側から日本人への働きかけがあったのはこのやりとりのあとと考えるのが妥当ではないでしょうか。つまり行政が娯楽施設を作れないので、民間にやらせようと判断したということです。もちろん双方に同時に働きかけていたかもしれませんが。

暫定的な結論:横須賀のクラブ(キャバレー)は9月中旬以降にオープンした可能性が高い

「最初のクラブ」まとめ

これらのことから、横須賀の米軍向けクラブは国内ではかなり早い時期にできているが、一番最初と断言するにはやや弱いと判断しました。「最も早い時期にできたクラブのひとつ」くらいにしておいたほうが良いでしょう。

「戦後最初のジャズ」

つづいてはもうひとつの「最初」、ジャズのほうを考えてみたいと思います。その前に、すでにお気づきの方もいらっしゃると思いますが……。これまで見てきた例はすべて関東に集中していました。でも、それよりも前にアメリカ軍が来ている県があります。沖縄です。

1945年夏の沖縄

沖縄、恩納でライブをするケイ・カイザー。1945年、日時不明。沖縄県公文書館所蔵

悲惨な結末で知られる沖縄戦は、本土よりひと足早く6月には終結しています。ただし日本の全面降伏までの2ヵ月弱はまだ戦地扱いだったようで、兵士はハワイなどで休暇を取りました(アメリカ軍は戦地から離れた場所で兵士に休暇を取らせます)。8月には、オアフに開設された休暇施設に沖縄からの兵士が滞在していることが報じられています14

そんなわけで8月15日までの沖縄には娯楽が少なそうですが、まったくなかったわけでもなさそうです。当時人気のラジオパーソナリティでミュージシャン、ジャズのビッグバンド団長としても有名だったケイ・カイザーが、8月の沖縄で公演を行ったという報告があります15。ケイ・カイザーは戦時中慰問を積極的に行うことで有名でした。

長々書いて、ようやく出せた2個目のプレイリスト。ケイ・カイザー楽団のアルバムです

ケイ・カイザーは8月中に沖縄で12公演、硫黄島で2公演を行ってハワイに戻りました。もともとフィリピンにだけ行く予定のところ、スケジュールを調整して南西諸島まで脚をのばしたようです。「一日に200マイル(約322キロメートル)移動した日もある」とのことなので、空の移動もあったでしょう。それなら8月15日以降(つまり戦後)に公演があっても、記事が出た9月1日までにハワイに戻れます。

沖縄県公文書館には、1945年にケイ・カイザーが沖縄で慰問を行ったさいのステージ写真が残っています16。この写真が撮られたのが8月の滞在時かどうかはわかりません。ただ、9月以降にふたたびケイ・カイザーが沖縄を訪れたという記事は発見できませんでした。そのためこの写真も8月の慰問公演だった可能性が高そうです。

ちなみに……。強行軍だったためかどうかわかりませんが、予定通りの公演ができなかった場所もあったようです。9月11日の星条旗新聞には、「ケイ・カイザー楽団が来るというので大雨の中野外で待っていたのに、実際には兵士のバンドしか演奏しなかった。ケイ・カイザーはメンバーの女の子たちと一緒に舞台裏でずっとトランプをしていた」という兵士からの怒りの投書が届いています17。沖縄県公文書館に残っている写真も屋外ですので、雨が降ってきたら大変だったろうなというのは想像できますね……。

暫定的な結論:沖縄では8月にはジャズが演奏されていた

進駐軍の軍楽隊

ちょっと視点を変えてみましょう。アメリカ軍に所属している職業ミュージシャン、軍楽隊です。いわゆるマーチングバンドであり、その編成はジャズバンドとよく似ています。軍楽隊がジャズを演奏するのは現代でも珍しいことではありません。

アメリカ陸軍軍楽隊による’Sing Sing Sing’

8月28日に厚木基地に到着した空軍先遣隊は軍楽隊を連れてきていました。9月2日に横浜へ上陸する第一騎兵師団を歓迎するため、「The Old Grey Mare」という曲を演奏したことがニューヨークタイムズで報じられています18

参考、イギリス軍の軍楽隊による’The Old Grey Mare’

騎兵師団が上陸するので「おんまはみんなぱっぱかはしる」の曲を演奏したわけですね……。

このほかにも各軍種が軍楽隊を連れてきていたようです。たとえば’The Old Grey Mare’で歓迎された第一騎兵師団も軍楽隊を伴っており、マッカーサー東京入りの際に演奏したことが星条旗新聞によって報じられています19。同じ部隊かどうかわかりませんが、陸軍軍楽隊第233軍楽隊は9月23日にNHKのラジオへ出演しジャズの生演奏を行いました20。第233軍楽隊は当時第293軍楽隊に合流していました。第293軍楽隊は長く日本に駐留して演奏活動を行いました21

軍楽隊の仕事には構成員に娯楽を提供することも含まれています22。軍楽隊を連れてきた部隊はほかより早めにジャズを楽しむことができていたかもしれません。

暫定的な結論:ジャズを演奏可能な編成の軍楽隊は8月28日から日本に駐留

横浜の「GIシアター」

先に取り上げた、9月30日までに開業した横浜の「GIシアター」では、ラニー・ロスのフィルムとラジオ放送がありました。それに加えて兵士がエンターテイメントを提供した、とニューヨークタイムズは報じています。ラニー・ロスがジャンルとしてジャズに入るかというとよくわかりません。ブラスバンドで歌ってはいますね……。

ラニー・ロスのベストアルバム

暫定的な結論:横浜では9月30日までに何らかの音楽が演奏されたが、ジャズかどうかはわからない

「最初のジャズ」まとめ

先ほど書いたとおり、9月から練習を続けていたプロのジャズミュージシャンたちは、10月には東京で舞台に上がるようになっています。それまでのあいだにどこでジャズが最初に演奏されたのか。わかりませんが、今まで見てきたかぎり「横須賀が最初だ」と言い切るのは少し難しい気がします。少なくとも沖縄のケイ・カイザーのほうが早いでしょう。

ただ、「日本人ミュージシャンによって、練習ではなく舞台の上で演奏されたジャズ」という意味なら、もしかしたら横須賀が最初だと主張できる可能性はあります。本場アメリカ出身のプロがすでに日本で演奏している状況で、その主張をするのにどれだけ意味があるかはよくわかりませんが……。

横須賀が戦後ジャズ発祥の地でないとしても

冒頭でも書きましたが、横須賀が戦後ジャズ発祥の地であるかどうかはあまり重要なことではないと思います。もし横須賀がジャズの街になりたいのであれば、まちの中にどう音楽があるのかのほうが大切でしょう。

次に横須賀を歩くときは、まちなかでジャズがどう鳴っているのかを楽しみたいです。そこから見えてくるもの、見えてこないものこそ、横須賀をジャズの街にする、もしくはそう見なすために必要な要素なんじゃないかなと思います。

最後におまけ程度のお散歩情報

田浦_田浦教会 - Google My Maps

横須賀市のTwitterから、ずいぶん遠いところまで来てしまいました。最後にほんのおまけ程度のお散歩情報を。1945年9月にキャバレーとなったと思われる「田浦の下士官集会所」は、現在日本基督教団田浦教会になっています23。田浦駅南口から歩いてすぐ。街並みに当時の面影はありませんが、国道16号線は戦前から大きくは変わっていません。「こんなところにあったのか」と眺めに行ってみてください。

夏は暑いですが、田浦駅周辺の山道はこちらもおすすめです↓

赤星友香
赤星友香

横須賀ぷらから通信主宰。クロシェター / ライター。普段はpiggiesagogoという屋号で編み図を作ったり、別館1617という自主レーベルで本を作ったりしています。横須賀育ちの北関東在住で、わりとつねに三浦半島に行く口実を探しています。

参考情報

ここから先は参考情報です。ご興味のある方はお読みください。

アメリカ軍の進駐スケジュール(1945年)

8月28日 アメリカ空軍先遣部隊が厚木に到着

8月30日 マッカーサーが厚木に到着、当面は横浜拠点で行動する / アメリカ海軍が横須賀に上陸

9月2日 講和条約調印 / 以後全国に進駐が進む

9月8日 マッカーサーが東京入り

終戦連絡委員会から特別調達庁まで

8月15日にポツダム宣言を受け入れて以降、1週間ほどは政府内部でごたごたが続いたようです。8月22日、「終戦処理委員会」と「終戦連絡委員会」という別々の組織が立ち上げられますが、すぐに終戦連絡委員会に一本化されます。陸軍省、海軍省、外務省あたりで、どこが主導権を握るか等々のにらみ合いがあったようです24

終戦連絡委員会には中央と地方がありました。中央ははやくも8月26日に「終戦連絡中央事務局」に改組しますが、地方の委員会が「終戦連絡事務局」になっていくタイミングにはばらつきがあります25

横須賀はというと、少なくとも8月24日には終戦連絡委員会が始動していました。外務省からの出向職員をはじめ、海軍、陸軍の内地勤務組、横須賀市、神奈川県、警察署、税務署、郵便局、銀行等々、公共に関するセクターが一堂に会して毎日(!)会議を行いました26。こんな規模のでっかい連絡会議なんて現代では一年に一度あるかないかだと思うので、当時の混乱ぶりが伝わります。

横須賀の終戦連絡委員会が終戦連絡事務局に改組したのは10月10日です27 。

1947年には特別調達庁が発足して終戦連絡中央事務局の業務が移管されます。それに伴い、地方の終戦連絡事務局もその役割を終え、最終的には外務省へ吸収されていきました

進駐軍に提供する娯楽調達方法の変遷

今まで見てきてなんとなくわかるところですが、敗戦直後は混乱が激しく、いろいろと要求してくる進駐軍に対しつどつど可能なセクターが官民問わず対応していたとみられます。それも1年ちょっとすると落ち着いてきます。最終的には進駐軍がProcurement Demand(PD)という発注書を出し、それを終戦連絡事務局(発足後は特別調達庁)が処理するかたちにまとまりました。1947年4月以降は芸能関係のブッキングもこの方法で進められました281946年以降のPDは国立公文書館のデジタルアーカイブで確認することができます

それ以前、1945〜46年に関しては、RAAが進駐軍の発注を受けて調達するのが主だったようです。ミュージシャンや芸能事務所からの直接売り込みも多くありました。終戦後早いうちから進駐軍向けの舞台に立っていたミュージシャンたちの多くは、直接売り込みだったと考えられます29。また、PDによる発注体制が整った後も、民間の経営による進駐軍向けクラブは独自にミュージシャンをブッキングして演奏させていました。

  1. なお、この四都市を比較する視点に関してはE. Taylor Atkinsのエッセイ”Localizing Jazz and Globalizing Identities in Japan“から示唆を受けています。アトキンスは日帝時代の日本と朝鮮半島の文化について研究している歴史学者です。このエッセイでは「まちづくり」「ふるさとづくり」等の内向きなローカルアイデンティティを希求する行政が、ジャズという舶来ものを噛ませることで「国際化」を強調するねじれやアンバランスさについて触れています。 
  2. 本記事では「戦後日本」の範囲をカイロ宣言で言及された範囲とします。そのため朝鮮半島・満州・その他1914年以降に日本が支配した各地は「戦後日本」に含めません。 
  3. 広場で楽隊を鳴らそう 復刻版|パブー|電子書籍作成・販売プラットフォーム  
  4. 内田晃一『日本のジャズ史 戦前戦後』スイングジャーナル, 1976, p. 160
  5. 終戦わずか2週間後「東京の慰安婦」は米軍のいけにえにされた(貴志 謙介) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)  
  6. ‘Japanese Open Tokyo ‘USO,’ Featuring Beer, Hostesses’Stars & Stripes, 1945.09.15, p.3 
  7. 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B17070004200、連合軍の本土進駐並びに軍政関係一件 軍政関係(米国の対日一般方針及び政策を含む) 第3巻(A’.1.0.0.2-1_003)(外務省外交史料館)」4.軍政一般(つづき)/3)各地方軍政状況報告関係/分割1(0066, かっこ内数字は資料の通し番号) 
  8. 青木深『めぐりあうものたちの群像』大月書店, 2014, p.298
  9. ‘OPEN ARC CLUB IN JAPAN’ Stars & Stripes, 1945.09.22, p. 4 
  10. ‘GI Theatre Opens in Yokohama’ The New York Times, 1945.10.01, p.5(リンク先は有料)
  11. ちなみにこの場所が本当に下士官集会所なのであれば、キャバレーは短命に終わったかもしれません。田浦の下士官集会所は1946年に日本基督教団に払い下げられ、のちの田浦教会の母体となる組織が立ち上げられています。 参照:教会の歴史 | 日本基督教団田浦教会
  12. 大森盛太郎『日本の洋楽2』新門出版社, 1987, pp.38-39
  13. 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B17070004200、連合軍の本土進駐並びに軍政関係一件 軍政関係(米国の対日一般方針及び政策を含む) 第3巻(A’.1.0.0.2-1_003)(外務省外交史料館)」4.軍政一般(つづき)/3)各地方軍政状況報告関係/分割1(0067)
  14. ‘No Chicken, Plenty Of Beer At GI Shangri-La On Oahu’ Stars & Stripes, 1945.08.13, p.4
  15. ‘Kay Kyser Pays Honor To GIs After Tour Of Forward Islands’ Stars & Stripes, 1945.09.01, p.8
  16. 資料コード:0000112188 写真番号:02-44-1 アルバム名:占領初期沖縄関係写真資料 陸軍04。沖縄県公文書館のウェブサイトで検索できます
  17. ‘Kay Kyser Critic’ Stars & Stripes, 1945.09.11 p.2 この投書には後日20日に匿名読者からお返事の投書がありました。「別のコラムではフィリピンに行って公演をしたとしか書いてないけど、いったい何が起こってるの?」と困惑した模様。当時の軍隊の情報統制のあり方と、そもそもの情報自体が混乱している様子が窺えます。出典: ‘Who’s Snowing Whom?’ Stars & Stripes, 1945.09.20 p.2
  18. ‘ ‘Old Gray Mare’ Played As Cavalry Unit Lands’ The New York Times, 1945.09.03, p.3
  19. ‘GI’s In Tokyo; Occupy Korea’ Stars & Stripes, 1945.09.10. P.8
  20. 内田晃一『日本のジャズ史 戦前戦後』スイングジャーナル, 1976, p. 162
  21. 青木深『めぐりあうものたちの群像』大月書店, 2014, p.201
  22. 青木深『めぐりあうものたちの群像』大月書店, 2014, p.201
  23. もしかしたら現田浦教会以外にも田浦に下士官集会所があったのかもしれないと思い、接収当時の構内図を眺めてみたのですが見つけられませんでした。もし発見された方はぜひお教えください。構内図はこちらからダウンロードできます
  24. 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B21010382300、外務省行政組織関係雑件 終戦連絡事務局関係 第1巻(M’.1.3.1.1-5_001)(外務省外交史料館)」
  25. 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B21010382700、外務省行政組織関係雑件 終戦連絡事務局関係 第1巻(M’.1.3.1.1-5_001)(外務省外交史料館)」
  26. 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B17070004200、連合軍の本土進駐並びに軍政関係一件 軍政関係(米国の対日一般方針及び政策を含む) 第3巻(A’.1.0.0.2-1_003)(外務省外交史料館)」4.軍政一般(つづき)/3)各地方軍政状況報告関係/分割1(0093)
  27. 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B17070004200、連合軍の本土進駐並びに軍政関係一件 軍政関係(米国の対日一般方針及び政策を含む) 第3巻(A’.1.0.0.2-1_003)(外務省外交史料館)」4.軍政一般(つづき)/3)各地方軍政状況報告関係/分割1(0052)
  28. 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B18090052200、連合軍の本土進駐並びに軍政関係一件 軍政関係 連絡調整地方事務局執務報告書綴 第11巻(横浜1)(A’.1.0.0.2-1-1)(外務省外交史料館)」(0139)
  29. 青木深『めぐりあうものたちの群像』大月書店, 2014, p.86
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