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【JR逗子】進駐軍の足跡を歩く:池子の森自然公園と旧なぎさホテル

「湘南」は「基地」と手を切ったか

「湘南ウォッシュ」

『東京スタディーズ』(紀伊國屋書店)所収の吉見俊哉「ベースとビーチ——「湘南」の記憶」を読んでいて、ふと首をかしげる記述がありました。

そして湘南海岸も、もうだいぶ以前から基地の街との連続性は断ち切って、「古都」鎌倉との連続性や瀟洒な高級住宅地のイメージを定着させてきた

吉見俊哉・若林幹夫編著『東京スタディーズ』p. 110(紀伊國屋書店, 2005.)

どうして「湘南海岸も」という言い方になるのかというと、このエッセイの糸口が横須賀だからです。横須賀は未だに基地の街です。それはもちろんそうなんだけど、汐入駅で降りて基地を感じる要素は、少なくとも昭和のころに比べるとだいぶ減ったのではないかと吉見は指摘します。

EMクラブがなくなり、駅前の再開発があり、どぶ板通りも昔よりきれいになった。そして変わらずにあるはずの基地は、少しずつ存在感を失っている。と、そういうわけです(実際にどうかは、見る人によって大きく異なるとは思いますが)。

そしていわゆる「湘南カルチャー」も、そうなのではないかというのです。横須賀と同様に基地の影響を強く受けていた湘南エリア。その主要な要素は残しつつ占領の記憶はすっきりと洗い流しているのではないか、というのが冒頭の文章の指摘です。

表面的にはまったく関係のないおしゃれなエリアであるように見えるけど、よくよく目を細め、耳を澄ましてみると「占領者と地域の関係史1」が見えてくる、と。

ちなみに湘南カルチャーとは何かというと、ここではたとえば石原慎太郎・裕次郎兄弟が熱愛したヨットや、現在でも愛好家の多いサーフィン、そして別荘地を含むリゾート的なイメージ全般と考えておけば良いでしょう。これらは吉見の言い方を借りるのであれば非常に「バタくさ」く、海岸に遊びに来た米兵たちの影響を受けて流行したものであることは間違いありません。

森戸海岸にある石原裕次郎関連のスポットについてはこちらの記事もどうぞ。

そんなわけで、吉見の指摘にはかなり分があるように思われます。たしかに石原慎太郎・裕次郎兄弟は占領軍の話をほぼしませんでしたし、現代でも「湘南」と言って「基地」と思う人はまずいないでしょう。湘南は基地と——進駐軍と手を切ることに成功した、のかもしれません。でも、三浦半島に住んでいる人たちなら気づくことがあります。石原慎太郎・裕次郎兄弟が愛した逗子に、今でも米軍の施設があるんですよね。

池子の森

どういう話の流れだったか、小学校のときの担任が言っていたことが今でも強く印象に残っています。曰く、池子の森に米軍住宅が設置されることになり、豊かな自然環境が破壊されることがわかった。そのため当時は反対運動に参加し、デモなどを行ったと。

「池子の森」こと旧横須賀海軍軍需部火薬倉庫は戦後の早い時期にアメリカ軍によって接収されます。そのまま返還されず現代にまで至りました。

弾薬庫としての役目を終えたあとは積極的な利用もされないまま置いておかれていたわけですが、横浜市本牧にあった米軍住宅用地が返還された1982年に状況が変わります。池子を住宅用地とすることがアメリカ軍から逗子市に通知されたのでした2。市長が辞任するなどのすったもんだがあった挙げ句建設はされることになり、現在でも横須賀ベース関係者の多くが池子に在住しています。

記事の最初に戻ると、わたしが首をかしげたのは「連続性も何も、池子(つまり、米軍住宅)があるじゃん?」ということだったのです。吉見の指摘通り湘南エリアが「基地の街との連続性」を断ち切りたい! と思っていても、少なくとも逗子市にとって、「基地の街」は過去の話ではありません。今、現実に、まちのなかに「ある」。

ではなぜそう見えないのでしょう? 進駐軍の足音は遠ざかり、もうどこにも見当たらないように思えるのでしょうか。気になったので歩いてみることにしました。

今回歩いたルート

逗子_進駐を歩く(池子と久木) - Google My Maps

JR「逗子」駅から出発し、逗子海岸までを1時間くらいで歩くことを目標にします。当日はどうしても1時間くらいで歩ききりたい理由があって頑張りました。本当はもう少しのんびり歩けると良いかもしれません。

JR「逗子」駅から出発

逗子駅を出発!

11月末、15:30ごろの逗子駅です。東口に出てきてしまいましたが、本当は西口のほうがルート的には歩きやすいです。とりあえず線路を渡ります。

JR線沿いの道

渡ってすぐの通りを東へ東へ進みます。ご覧の通り、線路にぴったりと寄り添う道路です。

池子隧道

あれっ

JR横須賀線と京急逗子線が交差する直前、遮断機のない踏切が現れました。遮断機がないのも不思議なんですけど、線路の先にあるトンネル、見覚えがあるぞ。

出典:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04016489100、公文備考 土木30 巻135の4(防衛省防衛研究所)」

事前の調べごとで資料を探していたとき、「池子隧道設計図の件」という件名が目に留まって閲覧した設計図です。隧道とはいいつつも……

「湘南電気鉄道株式会社」とあります。出典:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04016489100、公文備考 土木30 巻135の4(防衛省防衛研究所)」

車や人が通るトンネルではなく、鉄道のトンネル。湘南電気鉄道株式会社、つまり現在の京浜急行です。どういうわけか、鉄道会社がトンネルを作るのを海軍省に申請しているんですね。

拡大……。

うん、この下がすぼまる形状、まずまちがいなく同じものでしょう(2022年1月16日追記:と、思ったのですが、このトンネルが建設された時期と、上掲の資料の時期が合わないみたいです。似ているけれど別のトンネルの可能性が高そうなので、もう少し調べてみます)。さてなんで海軍省に報告したんだろう?

この時点では「海軍の敷地をどうしても通らないといけなかったのかな……」などと考えていました。帰宅してから調べてみたところ、意外な事実が。これ、池子の森にまで続く線路だったんです。

逗子の住宅街、踏切のない線路はかつて弾薬を運んでいたって本当? - はまれぽ.com 神奈川県の地域情報サイト
逗子駅の東にある単線の廃線?っぽい線路とトンネルが気になります!道路を横切ってるのに踏切もないし、冒険してみたくなる線路です。京急逗子線と横須賀線が交差する近くの三叉路の手前です | 『はまれぽ.com』とは...横浜、川崎、湘南、神奈川県のキニナルお店、噂、スポット、変な場所、不思議なモノ、行政問題など真面目な疑問を...

海軍軍需部の倉庫ですから、ほかの倉庫や横須賀の軍需部本部(現在のベース内)などに火薬などの物資を運び出したり入れたりするのに線路を使っていたとのこと。現在は車両の修理や新造があったときだけ使われているそうです。なるほど、それはたしかに遮断機が必要なさそうです。

池子の森へ

左手へ折れます

それでは先へ進みましょう。京急の高架をくぐり、道なりにもう少し歩きます。「理科ハウス」という看板が立っている交差点で左に曲がります。

ひと駅歩きは直進で

ちなみにここで曲がらず直進すると、道なりに神武寺駅が見えてきます。「ひと駅歩く」散歩としてもどうぞ!

うわあ、見えてきた

少し歩くと見えてきました。「COMMANDER U.S. FLEET ACTIVITOES YOKOSUKA」、横須賀市民は妙に見慣れてしまっているあの文字列です。

ちょっとこの先に進むのに勇気がいる感じですが、ここは公道。大丈夫大丈夫。

「池子の森自然公園」

米軍住宅の入り口を通り過ぎて少し進むと看板があります。

案内図

そう、米軍住宅になった池子の森には、まだ豊かな森が残っているのでした。ずっと一般市民が立ち入ることができなかったエリアは、2016年から試験的に解放されています。

池子の森自然公園 | 逗子市

2022年1月現在の解放日は土日祝日および水曜日。それ以外の曜日は、一部のエリア以外入園ができませんのでご注意を。

右手は鉄条網

実は横須賀に住む前、ほんの子どものころに福生に住んでいました。もうあまり記憶はないのですが、横田基地の脇にある道路から見る基地内がちょうどこんな感じだったのを覚えています。話に聞く本牧の米軍住宅、通称「ベイサイドコート」もこんな様子だったそうですね。

散策路もあります

左手に運動場、右手に米軍住宅を見ながら少し進むと、高台を歩ける散策路入り口があります。こちらのほうが楽しそうなんですけど、今回はパス。なぜかというと……

トンネルは新しそうですが……

今歩いているこの道にちょっと関心があるからなんです。

旧横須賀海軍軍需部池子・久木地区

出典:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08010909400、横須賀海軍軍需部 引渡目録 3/3(防衛省防衛研究所)」

敗戦後、日本軍は武装解除と施設引渡しのためにさまざまな資料を作成しました。施設の地図や建物配置図なども含まれ、現在は防衛研究所が所蔵しています。一部の資料はアジア歴史資料センターのデジタルアーカイブでも見ることができます。上の図もそのひとつ。

出典:地理院地図

見にくくはあるのですが、現在の地図とよくよく比較してみるとあることがわかります。道の形、ほとんど変わってない! 新しく整備はされているものの、基本的には旧海軍軍需部の、そして進駐軍の使った火薬庫への道と同じなのです。

緑地エリア

トンネルを抜け、西側の緑地エリアへやってきました。弾薬庫の痕跡は跡形もありませんが、この道は昔から変わらないはず。

知らなければ本当にただの自然公園みたいです

道路には「SLOW」の文字が。こういうときに、そうか、米軍施設とつながっているんだと思い出します。ちなみにこの道はまっすぐ行くと米軍住宅の敷地にまたぶつかり、そこで行き止まりになるそうです。本当はそこまで確認したかったんですけど、どうしても1時間以内に歩ききりたいのでこのあたりでUターンします!

案内板は日英表記

久木側出口から海岸へ

ちんまりとした久木側出口

公園を西に進むともうひとつの出入り口があります。こちらは住宅地に接しているせいかとても静か。ここから海岸に向かって歩きます。

出典:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08010909400、横須賀海軍軍需部 引渡目録 3/3(防衛省防衛研究所)」

住宅地だったせいもありすっかり写真を撮るのを忘れてしまったのですが、このあたりは上の地図の左手下です。空白が始まるあたりに「工廠久木工員寄宿舎」とあります。海軍工廠(現在の横須賀ベース内)の工員たちが住んでいたのがこの宿舎です。現在は逗子市立久木中学校や私立聖和学院中学・高校などの敷地になっています。

屋敷通り

久木郵便局前

しばらく進むと信号のある交差点に出ます。渡って一方通行の道を進みましょう。「屋敷通り」です。明治期から別荘の建ち並ぶお屋敷街だったための名前だとか。現在では普通の住宅も多いですが、おそらく戦前のものだろうと思われる和風住宅に洋館が付いたような建築も見かけました。

写真がありませんがまっすぐ進みます。海の近くには私立逗子開成中学・高校もあります。逗子開成は戦前から続く学校ですが、戦後は海軍軍楽隊出身の中村政雄という人物がブラスバンド部の指導をしていました。実演家として横須賀などの進駐軍クラブで演奏していたようですが、あまり記録の残っていない人物です。中村本人より有名な人物に、ブラスバンド部の教え子、谷啓(クレージーキャッツ)がいます3

お屋敷街の近くにある名門校といえば、それこそ占領の歴史とはあまり関係がなさそうに思えます。が、思わぬところで占領軍との接点が顔を出すものなんですね。まっすぐ行けば池子の弾薬庫だし、部活の先生は進駐軍クラブで演奏しているし。

ちなみに戦後すぐの横須賀ジャズ事情については、以前の記事もぜひお読みください。

屋敷通りのおしまい

さて、海が近くなってきましたね。ここは……

おなじみの……
夢庵です

なんで夢庵?! とお思いになったでしょうか。それなりにわけがあるんです。

旧なぎさホテル

この夢庵のある場所には、戦前から戦後にかけて「なぎさホテル」という有名なホテルが建っていました。わたしは残念ながらその時代を知らないのですが、伊集院静の同名自伝作品が有名ですね。

このなぎさホテルは第二次世界大戦後、近隣にある高級ホテルの例に漏れず進駐軍に接収されています。主な用途は軍属の休暇ホテル。1945年8月30日に接収が行われ、1952年3月に解除されるまでは進駐軍専用として使われていました4

なぎさホテルが選ばれたのは、将校も宿泊させることができる良いホテルだったということや、海の目の前という好立地などが理由でしょう。戦中は水交社(日本海軍の外郭団体)の集会・宿泊所として使われていたということなので5、軍人を泊めるためのノウハウがすでにホテル側にもあったものと思われます。

山のほうへと歩いていくと池子の弾薬庫もあったわけですから、いろいろ都合が良かったのかもしれません。なぎさホテルでイベントがあるときは池子に駐留している兵士も遊びに行った可能性があります。戦後すぐは将校でもないかぎり自家用車もなかったでしょうし、下士官や兵卒は池子からてくてくと海に向かって歩いたでしょう。コースは、たぶん今日と同じ道です。

ちなみになぎさホテルだけでなく、池子の施設内でも演奏活動が行われていたようです。ジャズシンガーの星野みよ子は高校生くらいだった頃に池子施設内のEMクラブに遊びに行き、オープンマイクで歌ったことをきっかけにプロとしての道を歩むことになりました6

夕焼けが見たかったんです

海に目を転じると、ちょうど夕日が沈むところでした。1時間で歩きたかったのはこれ、夕焼けが見たかったんです。日没がちょうど16時30分くらいだったので、けっこうぎりぎりでした。

戦後すぐのこの海岸にはたくさんの駐留兵がいたはずです。なぎさホテルの接収が解除されたのが1952年、石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞を受賞したのが1955年(単行本出版と映画化は1956年)。3年ほどの時間は若者にとっては大きいですが、地域全体が進駐軍に受けた影響から脱するには足りなかったはずです。被占領の当事者ではないけれど、その空気感を吸って育ったのが今に至る湘南エリアの雰囲気だ、というところでしょうか。

伊豆のお山は雨降り

夕焼け空を眺めながら逗子駅方面に帰ります。海沿いに少し南下すると、逗子市役所や逗子・葉山駅までまっすぐ行ける通称「シンボルロード」に曲がれるトンネルがありますのでお見落としなく。

隠れているから、見えにくいもの

池子の米軍施設のようにわかりやすく鉄条網で覆われて隠されているもの、弾薬庫のように埋め戻されて見えなくなったもの、なぎさホテルのようにすっかり名残が消え去ってしまったもの。隠されていても、いくつかのヒントを使ってたどってみるとなんとなくぼんやり浮かび上がってくるように思われるもの。

たしかに吉見の指摘通り、湘南は基地の街との連続性が見えづらくなっています。でもなくなったわけではない。たぶん普通に歩いただけでは気づけないんですけど、今回は事前に資料を見つけておいたお陰で逗子に残る進駐軍の足跡をたどることができました。

こんなふうに、ふだんは気づかずにすごしているいろんなものごとが三浦半島にはまだまだあるはずです。今度は何が見つかるかなあ。

逗子開成でブラスバンド部を指導していた中村政雄については『めぐりあうものたちの群像』にほかの逸話が残っています(p.391)。サックス奏者の松本英彦が若いころにお世話になったそう。勘当同然だった松本を逗子の自宅に泊めてあげたほか、旧海軍軍楽隊の楽器を貸してあげたそうです。軍の備品は敗戦後接収されているはずなんですが、こういう感じで市中に残っているものも多かったんですね。

赤星友香
赤星友香

横須賀ぷらから通信主宰。クロシェター / ライター。普段はpiggiesagogoという屋号で編み図を作ったり、別館1617という自主レーベルで本を作ったりしています。横須賀育ちの北関東在住で、わりとつねに三浦半島に行く口実を探しています。

  1. 吉見俊哉・若林幹夫編著『東京スタディーズ』p. 110(紀伊國屋書店, 2005.)
  2. 小山高司「逗子市池子弾薬庫における米軍家族住宅建設について―3代の地元市長の対応を中心として― 」『防衛研究所紀要』(第13巻第1号p. 81, 2010.)
  3. 青木深『めぐりあうものたちの群像』大月書店, 2014, p.116
  4. 阿部純一郎「米軍保養地の形成と展開 : 占領期日本の休養ホテルを中心に」(椙山女学園大学研究論集 社会科学篇49号, 2018.)p.7
  5. 青木深『めぐりあうものたちの群像』大月書店, 2014, p.114
  6. 青木深『めぐりあうものたちの群像』大月書店, 2014, p.186
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