2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』は、タイトルの通り徳川家康が主人公です。江戸幕府を開いた徳川家康は東京の人……と思いきや、意外に三浦半島にもゆかりがあります。
教科書にも載っている、ウィリアム・アダムスこと三浦按針(みうら あんじん)。徳川家康に仕えたイギリス人ですが、和名の「三浦」は三浦半島に由来するのです。
その三浦按針の生涯と、ゆかりの史跡を巡ってみました!
あなたはなにしに日本へ? 三浦按針の半生
三浦按針は三浦半島民なら名前を知らない人はいない人はいないでしょう。しかしどんな人かと問われると……「イギリス人で、船が難破して日本に漂着したんでしょ?」「徳川家康から三浦の所領をもらった人」「たしか、英国式の帆船を作ったんだよね?」ぐらいしか知らない人もほとんど。
そこで、三浦按針の半生から辿ってみましょう。
英国の船乗りフランシス・ドレイクの元部下
ウィリアム・アダムスは1564年にイギリスに生まれ、12歳で船大工に弟子入りしました。やがて航海術にも興味を覚えたウィリアムは24歳の頃に海軍に入ります。
そこでイギリスの私掠船(しりゃくせん)船長フランシス・ドレイクの指揮下で、貨物補給船の船長としてアマルダの海戦に参戦しました。
私掠船というのは政府や国王の許可の元、敵国の船を襲う海賊のことです。ドレイクは1577年から3年かけて世界一周を達成し、イギリスからその功績を認められて海軍中将になり、ナイトの爵位を与えられていました。
ウィリアムが海軍に入った1588年。イギリスはエリザベス1世の統治下で、スペイン・ポルトガルと戦争をしていました。スペインは海戦が得意で「無敵艦隊」と言われていましたが、ドレイクはこのアマルダの海戦で無敵艦隊を破り、その名を不動のものとしました。
その翌年1889年にウィリアムは結婚し、軍を離れて貿易会社の船長として働きます。
オランダの貿易会社に転職し、日本へ……
ウィリアムはオランダの貿易会社が「凄腕の航海士を探している」という噂を聞きつけ、オランダに渡ってオランダの貿易会社に入りました。当時、ヨーロッパの主な輸入品は香辛料で、その産地である東インド諸島と貿易をしていました。
しかしオランダから東に向かうルートはイタリア商人に独占されていたため西回りでアフリカ大陸や南アメリカ大陸を迂回し、太平洋を横断する必要がありました。
1598年、ウィリアムは5隻の船でオランダのロッテルダム港から出航します。ところがこの船旅は困難を極め、5隻のうち1隻はなんらかの理由で帰国し、2隻は海賊に捕まってしまいました。
残った2隻の船は一路日本に向かいます。積み荷には毛皮があり、南国の東インド諸島では売れない。冬がある日本を目指したのではないかと推測されています。
そして1隻の船は太平洋の真ん中で沈没してしまいました。唯一残ったウィリアム・アダムスの乗った船は1600年4月、日本に命からがら辿り着きました。
到着したのは、現在の大分県臼杵市にある黒島です。しかし地図を見ると九州の北の方です。手前には鹿児島や宮崎、四国もあったのに、なぜここまでやって来たのでしょう。
当時の大分県は豊後の国。16世紀末の豊後の大名と言えば、キリシタン大名の大友宗麟(おおとも そうりん)で、それはヨーロッパでも知られています。もしかしたら同じキリスト教を信仰している人が支配している土地なら安全だと考えた、という説もあります。
しかし宗麟は1587年に亡くなっていて、後を継いだ義統(よしむね)は棄教しています。そしてウィリアムが残した手紙には「(北緯)30度に日本の北の岬があると思っていたんだけれども海図も地球儀も地図もなにもかもが間違っていて、目指すところは本当は(北緯)35.5度であるべきだった」というようなことが書かれています1。
「北の岬」とはどこのことだかわかりませんが、北緯35度にはちょうど三浦半島や房総半島があります。もしかしたら江戸を目指していたのかも? まだまだ研究しがいがありそうです。
黒島のある臼杵藩藩主はウィリアムたちを保護し、到着から9日後、大阪城にいた家康に呼び出されて謁見しました。当時家康はすでに正二位内大臣となっていて、関ケ原の戦いの直前のことでした。
家康とウィリアムたちがどんな会話をしたのか、記録にはのこっていません。しかしウィリアムが残した手紙によると、この後船に乗って江戸まで行ったようでした。
日本史唯一、所領を持った外国人のサムライ
ウィリアムは帰国を願っていましたが家康は許可せず、代わりに造船の仕事や三浦の逸見(へみ)に所領を与えられ、幕府の外交官として働くことになりました。
こうして逸見は唯一の、外国人が領主となった土地となりました。このことはウィリアムも手紙に「イングランドの貴族に匹敵するような暮らしをしている」と書いています。
今日のお散歩コース
とまぁ前置きが長くなりましたが、さっそく安針塚へと向かいましょう! 安針塚駅から安針塚へ向かい、帰りに按針の屋敷跡と噂される「鹿島神社」や按針の菩提寺である「浄土寺」に寄ります。
安針塚がある塚山公園へ、逸見駅から歩く記事はこちらもどうぞ。
安針塚
安針塚駅を降りたら、左へ。ゆるやかな坂を登っていきます。








三浦按針が亡くなったのは長崎の平戸です。しかし、遺言により知行していた逸見に按針夫妻の供養塔を建てたのでした。しかしその後、供養塔は忘れられ荒廃していきます。
明治時代になり、多くの英国人が日本にやってきました。そして横浜には英国人向けの新聞が発行され、その中で安針塚が紹介されて再び注目を集めました。現在の安針塚は明治38(1905)年に整備されたものです。

コロボックル野外図書館
ここからは、下り坂なので楽々です。息を整えたら出発しましょう!
安針塚に背を向けて進むと、3つに分かれた道があり、そこを右に進みます。



ここはコロボックルの小径と呼ばれる散策路です。

「コロボックルの小径」は逸見出身の児童文学作家、佐藤さとる氏の童話シリーズ「コロボックル物語シリーズ」にちなんだ名前です。
坂道を下って行くと……ドーム状のテントが。

ここは土日に開館する私設野外図書館「コロボックル野外図書館」です。佐藤さとる氏の著作が約150冊並んでいて、気さくな館長さんとおしゃべりしながらゆっくり過ごせます。

館長の吉江宏さんは自ら本を作る程の「三浦按針研究家」でもあり、図書館内にはパネルが展示されていて、ここに来れば、現在按針で解っていることは全てわかると言っても過言ではありません。

パネルの内容は公式サイトでも見ることができます。
コロボックル野外図書館:http://garireo.my.coocan.jp/index.html
鹿島神社
野外図書館から坂を下り……。

トンネルの前を通り過ぎ……

高架下を通り過ぎると、按針の屋敷があったと言われている鹿島神社です。

なぜかというと、『新編相模風土記稿(しんぺん さがみのくに ふどきこう)』という江戸時代後期に編纂された地誌に「三浦按針屋敷跡」という項目があり、そこに「浄土寺の南にあり、今は畑になっている」という記述があるので、ここではないか?と推測されているそうです。
ちなみに鹿島神社は元々海辺の方にあり、現在地に建てられたのは明治28(1895)年です。
浄土寺
鹿島神社の鳥居を背にして左にいくと、すぐに浄土寺があります。

ここは三浦按針の菩提寺となっていて、按針の持念仏が安置されています。鎌倉末期の作と言われている貴重な仏像です。
ちなみに創建は鎌倉時代の人気武将、畠山重忠。本堂は正徳2(1712)年の建造で、横須賀市で最も古い建造物の1つです。
浄土寺公式サイト:https://jodoji.net/
プラスのぷらり
さて浄土寺を出たら、再び鹿島神社の前を通り過ぎ、真っすぐ進んで道路を渡り、突き当りの郵便局右に行くと逸見駅です。

その途中には「コロボックルの会」の施設があります。ここでも佐藤さとる氏や三浦按針についての展示がありました。

そこでも色々なお話しを聞いてきたのですが、コロボックルの会はヴェルニー公園には「ウィリアム・アダムス」という名のバラを植えたとのこと!

さっそく行ってみましたが、取材時はちょっと早く、まだ蕾も固かったです。5月6月の初夏か、9月10月の秋ごろに真っ赤に開花します。

場所は、桟橋の近くの花壇です。

(編集部より)2023年5月中旬に見に行ったところ、開花したウィリアム・アダムスを見ることができました。あでやかな赤で、とても華やかなバラです。


(編集部より:以上)
掘れば掘る程おもしろい、三浦按針。まだまだ紹介したい話はありますが、今日はひとまずここまで!
- “we followed our former intention for Japan, and in the height of thirtie degrees, sought the North Cape of the forenamed Island, but found it not, by reason that it lieth false in all Chartes, and Globes, and Maps : for the Cape lyeth in thirtie five degrees 1/2. which is a great difference. ” Hakluytus Posthumus Or Purchas His Pilgrimes Vol.2 by Purchas, Samuel, p.331