初めまして。横須賀ぷらから通信です。

【汐入】横須賀マンボを探して(心の中で横須賀をさまよいつつ音楽とファッションを考える)

戦後のある時期、「横須賀」がポピュラー文化の中で一種のアイコンとなっていた時代がどうやら確実にあったようです。現在ではあまり想像つかない状況ですが、音楽やファッションのルーツを調べているとしばしば思いがけないところで横須賀に出会います。

今回はそのうちのひとつ、「横須賀マンボ」というものについて書いてみたいと思います。横須賀ぷらから通信の記事なので本当は歩くべきなのですが、緊急事態宣言の影響もあり最近横須賀を歩けていません。ので、今回は歩いてみるための前段階、調べごとのまとめということでご容赦ください。関係のあるエリアはどぶ板通りを中心とする本町周辺であろうと思います。

山口百恵「I CAME FROM 横須賀」(1977)

山口百恵の楽曲に「I CAME FROM 横須賀」というものがあります。「百恵白書」というアルバムの一曲目。京急の駅名を歌詞に織りこみつつ、「あなた」に会いに(恐らく京急に乗って)いく誰かさんの気持ちが綴られる楽曲です。Spotifyのリンクを貼っておくのでぜひ聞いてみてください。

横須賀マンボってなんだ?

この曲を聴いていて「何だろこれ?」となったのが「横須賀マンボ」です。歌詞だとこうなります。

駅の名前を ソラで言えるの
横須賀マンボ・Tシャツね

「駅の名前を覚えている」というのは山口百恵の実話だそうです。このことは書籍『プレイバック 制作ディレクター回想記 音楽「山口百恵」全軌跡』に記載があるそうですが、中古価格が高騰していてまだ読めていません……。

さて、問題はその次です。「横須賀マンボ・Tシャツ」ってなに?

特殊なスタイルのズボン

こちらは横須賀ジーンズ商会のオリジナルジーンズ。メンズですが女性も穿けます

早めに結論を言ってしまうと、「横須賀マンボ」とはある特殊な形状のズボン、さらにはそのズボンを取り入れたスタイルのことを指します。

形状としてはテーパード。裾がくしゅっとなる程度に長く、ウエスト周りはワンタックもしくはツータックでゆったりとしていたようです。現在「横須賀ジーンズ商会」が扱っているオリジナルジーンズが非常に近い形状であると思われます。

(余談ですが、横須賀ジーンズ商会のクラウドファンディングページにはこのスタイルが横須賀で80年代に流行ったという記述がありました)

「I CAME FROM 横須賀」は、横須賀マンボのズボンにTシャツをあわせたコーディネートをしているよ、ということなのでしょうか。

「ツッパリ路線」の山口百恵

「百恵白書」の時期の山口百恵は「ツッパリ路線」といわれています。前年の「横須賀ストーリー」から楽曲提供者に阿木燿子・宇崎竜童コンビを迎え、ちょっと不良っぽいはすっぱな感じの女の子を描く楽曲が増えているからです。

「I CAME FROM 横須賀」も「横須賀ストーリー」と同じく作詞・阿木燿子、作曲・宇崎竜童。つまりちょっと不良っぽい山口百恵を印象づけるために、本人のエピソードを盛りこみつ書かれた歌詞だと考えて良いでしょう。

不良ファッションの元祖?

さて、「横須賀マンボ」略して「スカマン」を現代に至るまでの不良ファッションの元祖と考える人たちもいます。このあたりのことについて様々な事例を挙げて解説しているのが『ヤンキー進化論』。

この本にヒントを得つつ、いくつかのできごとから当時の「横須賀マンボ」を探してみました。

「ロンタイ スカマン」(1976)

わりとすぐに見つけられる横須賀マンボは、宇崎竜童率いる「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド(DTBWB)」の楽曲「ほいでもってブンブン」です。

聴けばすぐにわかるのですが、これは元祖暴走族とでもいうべきツッパリたちの曲。その中に横須賀マンボが出てきます。歌詞としてはこうです。

ロンタイ スカマン 単車 四輪
みんな ヤンキー モンキー ベイビー

「ロンタイ」とは「ロングでタイトなスカート」のことで、横須賀マンボのズボンが不良少年のファッションなら、ロンタイは不良少女のファッションとして対になる存在だったというわけです。

ちなみにこれまた余談ですが、「ヤンキー モンキー ベイビー」は矢沢永吉率いるキャロルの楽曲「ファンキー・モンキー・ベイビー」を意識した歌詞だと思われます。DTBWBより数年デビューが早かった矢沢を宇崎は仮想的なライバルとして認識していたようです。不良路線であること、横須賀・横浜エリアと縁が深いこと(後述します)もライバル感を強めていますね。

矢沢永吉とキャロル(1972)

さて、それでは矢沢永吉は横須賀マンボと関係があるのでしょうか。キャロル時代のことをほとんど語らない矢沢ですが、解散後わりとすぐに出版された自伝『成りあがり』には当時のことが書かれています。広島から上京して横浜を中心にライブ活動をしていたこと、初期には横須賀でも演奏したこと、このあたりはわりと有名な逸話ですね。

同じ時期のことを別の角度から記述しているのが、キャロルのメンバーだったジョニー大倉による『キャロル 夜明け前』です。

キャロルといえば素肌に革ジャン、リーゼントといったバイカースタイルが印象的で、これはのちの暴走族ファッションにも大きく影響を与えたことがわかっています。ジョニー大倉によるとこのスタイルは非常に戦略的なもので、当時の流行とブレイク前のビートルズにヒントを得ているそう。

そして、キャロルとしてスタイルを統一するために大倉が選んだのが「横須賀マンボのズボン」なのだそうです。

「革ジャンとリーゼントでビシッとキメるぜ」 
 永ちゃんは気合を入れて言った。
「それにサングラスね。パンツは横須賀マンボだよ」
 永ちゃんはぼくの言葉にうなずいた。

『新装増補版 キャロル 夜明け前』 https://a.co/2e0gQfb

東京での流行(1960s後半~)

このように70年代には不良の代名詞として定着しつつあった横須賀マンボですが、スタイルとして認識されはじめたのは1960年代後半の東京だったようです。原宿と渋谷の間、通称キャットストリートにある「ピンクドラゴン」の創業者、山崎眞行も60年代の東京で横須賀マンボに出会ったひとり。当時流行していたアイビールックとは対照的にワイルドな横須賀マンボに出会わなければ、現在のピンクドラゴンもなかったのかもしれません。

以上のことは書籍『アメトラ』で紹介されています。

横須賀マンボがアイビールックと対をなすスタイルだったことは(現在入手困難ですが)『生活ファッション考』にもくわしいです。これは70年代初頭の本なので、当時の雰囲気を比較的リアルに知ることができます。

インターネットで読むならGQのこのコラムがわかりやすかったです。

ヤンキー・ファッション〜すべての美しきものたちへ〜 第3回
演出家・河毛俊作による、「美しきものたち」を巡るエッセイ。第3回は、近頃話題の“ヤンキー”について、演出家ならではの観察眼で考察。操上和美の写真とのコンビで、あなたの知と美の欲望を刺激する。

マンボ(音楽)

ここまで横須賀のことばかり書いてきましたが、ここで横須賀マンボの後半部分、マンボについて押さえておきたいと思います。

1950年代の不良とマンボ

マンボというのは音楽スタイルのこと。「うー、マンボ!」のマンボです。日本での流行は1950年代。1955年にペレス・プラード楽団が来日し、全国的にマンボ・ブームが巻きおこりました。

マンボの特徴は「踊れる」ということです。現在に至るまでポピュラー音楽では踊れる要素が重視されますが、マンボの流行はそれに先鞭をつけるものだったわけです。

マンボを演奏する人たちのスタイルはすぐに当時の不良たちによって取り入れられました。先にご紹介した山崎眞行もそのひとりで、アイビールックに身を包むようになる前はマンボのスタイルに憧れていたそうです。

とはいえこの時代のマンボスタイルはのちの横須賀マンボに比べるとだいぶフォーマル。白いシャツに黒いズボンを穿き、サスペンダーで吊る、みたいなイメージです。

東京で流行ったアイビーと、地方に残ったマンボ

これは前述の『アメトラ』にくわしく書かれていますが、60年代のアイビールックはいうなれば「作られた流行」でした。東京でこういうスタイルを裕福な若者たちに売るぞ! と決めたVANの創業メンバーたちが、マスメディアを巻きこみながら作っていった流行です。

一方のマンボは(マンボ・ブームという下地はあるものの)東京ではない地方で、大卒ではない、裕福でもあまりない不良たちによって育てられていった流行だといえそうです。

ただし、この時点はマンボは横須賀だけのものではなかった可能性があります。山崎眞行は北海道出身で、地元のイカした不良たちがマンボを着ているのを記憶しています。全国津々浦々、不良あるところにマンボあり、だった可能性があるわけです。

日本のファッションとして定着していくにつれ、いろいろなアレンジが行われたでしょう。今ふうにいうならご当地マンボともいえるスタイルが各地にあったかもしれません。しかし最終的にファッションの流行に取り入れられたマンボはひとつ。つけられた名前は「横須賀マンボ」でした。

なぜ横須賀だったのか

今回のまとめはだいたいこういった感じでおしまい。ここからはまだわたしのリサーチが足りていないエリアです。

アイビールックに対抗するスタイルとして流行したファッション、横須賀マンボ。なぜ横須賀だったんでしょうか? 東京に近いから? 米軍基地があるから? たしかに不良文化は米軍属のおしゃれな若者たちの影響を受けて変化していった側面があるようです。

しかし、1960~70年代当時といえば現在よりも国内に米軍基地が多かった時代。東京にも、横浜にも、まだまだたくさんの米軍関連施設がありました。1970年代当時の雑誌には「ソウルファッションを作る(オーダーする)なら横田基地がいい」などの記述もあったようです。必ずしも横須賀だけが米軍基地の街としてイケていると考えられていたわけではないことがわかります。(以上のことは『米軍基地文化』からの孫引きになります)

となると、「横須賀マンボと呼ばれてはいたけれど、実際は横須賀以外のところでも流行っていたスタイル」であった可能性が捨てきれません。さすがに横須賀で流行っていなかったものに横須賀の名を冠した、みたいなことはないと思うのですが……。

また、横須賀でどのくらいマンボが踊られていたのかも気になります。つまり、横須賀マンボとマンボにはどのくらい関係があるのか、です。もしかしたらマンボと全然関係ない音楽シーンから出てきたかもしれませんし、音楽ともほとんど関わりがなかったかもしれません。

ベトナム戦争の終結とプラザ合意後の変化によって、横須賀の繁華街はかなり変わってしまいました。当時の文化も、音楽も、ファッションも、今から掘り起こそうとするとなかなか難しさを覚えます。とくに横須賀マンボは不良文化ですから、公式な記録にも残りにくそうです。そのころの雑誌記事などをこれから調べていく予定ですが、どのくらい当時の雰囲気にせまることができるのかはまだちょっとわかりません。

最終的には当時の地図や写真などの資料を持って、横須賀マンボに関係の深かったエリアを歩いてみたいなと思っています。もし情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら(そしてご協力いただけましたら)、横須賀ぷらから通信のお問い合わせフォームからご一報いただけますとうれしいです。それでは今回はこのあたりで。

赤星友香
赤星友香

横須賀ぷらから通信主宰。クロシェター / ライター。普段はpiggiesagogoという屋号で編み図を作ったり、別館1617という自主レーベルで本を作ったりしています。横須賀育ちの北関東在住で、わりとつねに三浦半島に行く口実を探しています。

 

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