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三浦義村の神社(近殿神社・千片神社跡・近戸神社)【スポット紹介】

三浦義明の孫・三浦義澄の息子である三浦義村を祭神とする神社について紹介します。

近殿神社(横須賀市大矢部1-9-3)

近殿神社社殿には「三浦義明」「三浦義村」の幟がひるがえっていました(2022年6月)

近世に新しく作られた神社

近殿神社(読み方:ちかたじんじゃ、ちかどのじんじゃ、きんてんじんじゃ)

横須賀市大矢部1-9-3にある神社です。江戸時代は大矢部村の鎮守、明治期以降は村社でした。横須賀市大矢部にお住まいだった方がまとめた『大矢部のはなし』によると、1801~3年の間(享和年間)に大矢部の鎮守が浅間神社から近殿神社に変更されました。それ以前から近殿神社が存在したかどうかは記録に残っていません。(典拠:「矢部郷御鑑帳」)

(2022年11月5日追記)2022年度の横須賀市市民大学後期講座「三浦一族と横須賀」にて、横須賀市立図書館郷土資料室の谷合伸介さんから興味深いお話を伺いました。史料によれば、以前に鎮守であった浅間神社は現在の近殿神社と同じ場所もしくは近隣にあったと考えられるそうです。

浅間神社は富士山信仰とかかわりが深い神社です。形の整った小山や、古墳だった塚などに造立されているのがよく見られます。三浦半島だと三浦富士にある浅間神社が有名です。

近殿神社が三浦義村を祀るようになる以前、もともとは山岳信仰にゆかりの深い神社だと考えると納得感があります。というのも、近殿神社には拝殿のみがあり、その奥にあって一般の人が立ち入れない本殿が存在しないからです。

近殿神社の社殿をわきの市道から眺めたところ。写真右手の擁壁〜がけが裏山です

社殿の後ろにはぎりぎりまで裏山が迫っていて、その様子を見るかぎりでは裏山がご神体であるようにも思えます。現在の社殿は第二次世界大戦後に作り直したそうです。そのときにあえて拝殿と本殿を分離させなかったのは、従前の建築様式に従ったためなのかもしれません。(2022年11月5日追記終了)

もと鎮守の浅間神社ほか、大矢部町内にあった8つの神社の石宮が境内に移されています

近殿神社を鎮守にした三浦長門守為積は、自身の先祖である三浦一族の顕彰と由来の地再興に努めました。大矢部町内では満昌寺・清雲寺・薬王寺(現在は跡地)・深谷やぐら群(現在立ち入り禁止)で為積が寄進した石灯籠などを見ることができます。

近殿神社の読み

現在は「ちかたじんじゃ」と読むのが一般的ですが、古記録には三種類の読みが残っています。

「きんてんじんじゃ」

近殿明神ノ社今鎮守

是ハ三浦平六兵衛義村ヲ祭リテ近殿明神ト崇ム

三浦古尋録:校訂』(p. 79)※インターネット上での閲覧には利用登録が必要です
国立国会図書館デジタルコレクション

1812(文化9)年に成立した『三浦古尋録』は、現存する最古の三浦半島地誌です。こちらによると、「近殿」には「キンテン」の読みがなが振ってあります。

「ちかどのじんじゃ」

近殿神社境内にある石宮についての看板。 右奥から左に山頂神社・貴船神社・熊野社・皇大神社。右手前から左に金比羅神社・八雲神社・浅間神社・近殿神社の境内社の石宮が並んでいることが書かれてあります
石宮に関する説明板

○近殿明神社 知加度能美也宇志牟也志呂 村の鎮守なり、神體木像 長一尺餘 三浦駿河守義村の霊を祀る、村持下同じ、 △末社 荒神 稲荷 ○神明宮 ○淺間社 例祭六月十日、末社 天神 牛頭天王 ○貴船社 神體圓石、○山頂明神社 山上にあればかく稱せり、 三浦介義明の乗馬を祀れりと云ふ、 例祭二月十九日 ◯熊野社

新編相模国風土記稿
国立国会図書館デジタルコレクション

三浦古尋録に続くこと1841(天保12)年に成立した『新編相模国風土記稿』には、万葉仮名で「知加度能美也宇志牟也志呂(ちかどのみようしんやしろ)」とあります1

近代の合祀

明治の終わりから大正にかけて、政府主導で神社を整理する政策が行われました。旧村制が敷かれていた地域では、「一村一社」の方針で神社がすべてひとつにまとめられました。大矢部は旧衣笠村の行政区域内に属していたため、衣笠山にある衣笠神社に合祀されます。

明治四十五年三月廿六日衣笠村小矢部村社皇太神社外廿八社合併出願同年七月二日付神奈川指指令内教第二二九四號許可同年十月七日処分済大正二年九月一日移転改築

明治12年神社明細帳 | 神奈川県公文書館 2

1912年(明治45年)から合祀が始まり、翌1913年(大正2年)には完了しています。衣笠神社には大矢部のみならず金谷・衣笠・小矢部・平作・森崎の神社がすべて合祀されました。当時平作の一部であった池上の白鬚神社からは祭神として和田義盛がやってきています。三浦義村とは和田合戦で因縁のある相手ですが、このふたりを同じ神社に祀ることについて当時の人たちはどう考えたのでしょうか。気になるところです。

和田義盛と和田合戦についてはこちらの記事もどうぞ。

その他古記録類に見える近殿神社

明治5年から編纂が始まったものの、難航のすえ10年ほどで未完のまま終了した「皇国地誌」編纂事業というものがあります。神奈川県でもある程度の原稿が作成されていたようですが、その多くが関東大震災で消失するという憂き目に遭いました。各自治体や県など、さまざまな場所でかろうじて保管されていた原稿類を集めて出版されたのが『神奈川県皇国地誌残稿』です。幸運なことに近殿神社については少々の記述がありました。

近殿社 式外社々地東西四間南北九間面積壱百弐拾六坪本村北ノ方ニアリ祭神三浦駿河守義村ヲ祀ル勧請詳ナラス祭日十月十日社地中老松三株アリ蓋シ弐百年余ノ物ナリ

神奈川県皇国地誌残稿』(p. 82)※インターネット上での閲覧には利用登録が必要です
国立国会図書館デジタルコレクション

「勧請詳ナラス(勧請つまびらかならず)」とあります。三浦為積が近殿神社を鎮守にしたことは知られていたでしょうから、この「勧請」とは恐らくそれ以前にどのような経緯で神社ができたのか、ということについてでしょう。近代にはすでに経緯が不明になっていたようです。

ただし、10月10日、いわゆる十日夜(とおかんや)が例祭だと書かれています。これは収穫祭の日取りなので、近殿神社は農耕神として信仰されていたことがわかります。

秋祭(あきまつり)とは? 意味や使い方 - コトバンク
精選版日本国語大辞典-秋祭の用語解説-〘名〙秋の収穫祭。陰暦九月ごろ、各地の鎮守の社などで行なう祭礼。その年の新穀を神に供えて収穫を感謝する祭。秋社(しゅうしゃ)。在祭(ざいまつり)。あきのまつり。⇔春祭。《季・秋》※多聞院日記‐天正一三年(1585)二月六日「薪能如レ形...
近殿神社に設置されているQRコードを読み込むと義村が動くARアニメーションが起動します

近殿神社を含む、大矢部の三浦一族巡り記事はこちら。

アクセス情報

名称:近殿神社
所在地:横須賀市大矢部1-9-3
アクセス:「横須賀中央駅」バス停より【須5・6・7】系統のバスに乗り「衣笠城址」バス停で下車(約20〜30分)。徒歩650m。
駐車場:なし

三浦義村を祭神とするほかの神社

現在はすでになくなってしまっていますが、三浦義村を祭神とする神社は横須賀市内にもう二つ存在しました。あわせてご紹介します。

千片神社跡地(横須賀市根岸5-19-19)

千片神社跡。鳥居と石宮が残されています

千片明神ノ社 是ハ三浦平六兵衛義村ヲ祭ル

三浦古尋録:校訂』(p. 32)※インターネット上での閲覧には利用登録が必要です

横須賀市根岸(古くは大津村の一部)には千片神社跡があります。現在は根岸町内会館の敷地になっています。この場所、もしくは近隣が三浦義村の屋敷だったと推定されているそうです。

散策ルート3(古道を巡るコース)
 
根岸町内会館の壁には三浦一族の家紋である三つ引があしらわれています

読み方は『新編相模国風土記稿』によると「知加太美夜宇之無也志呂(ちかだみようしんやしろ)」3

三浦義村の靈を祀ると云、神體は束帶の坐像なり、

新編相模国風土記稿』(p. 316)

とあります。大矢部の近殿神社と同様、義村の座像があったようです。

千片神社跡の看板。 神社の祭神は六代衣笠城主三浦義村で、義村の死後三七〇年余を経た慶長十八年(一六一三)に創建されました。 関東大震災で社殿などが壊れ、大正十三年(一九二四)に諏訪神社に合祀されました。 義村は鎌倉幕府の評定衆に任命され御成敗式目の制定にも貢献し文武を兼ね備えた武将館もこの辺りにあったと推定されています。 神社は根岸の氏神様として崇拝され「はしか」によく効くことで知られていました。 鎮守の森は戦時中に伐採されましたが、現在は根岸町内会館裏に神社跡の鳥居の一部が残されて います。 大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ 木像の写真があり、「三浦義村木像 (近殿神社蔵)」とキャプションがついています
千片神社および三浦義村についての案内板

明治12年の神社明細帳によると「慶長十八年九月勧請千片明神と称す」とあります。慶長18年は1613年ですから、大矢部の近殿神社よりも古い時代から記録に残っている神社だということになります。祭神が勧請のときから三浦義村なのか、途中で変わったのかはわかりませんでした。

神社の建造物は関東大震災(1923年)で全壊してしまったため、現在は大津の諏訪神社に合祀されています。このあたりにも「一村一社」の原則が適用されていたはずなのですが、神社の状態が当時どうなっていたのかは現在も調査中です。

折れてしまった鳥居からは「文久三年」「三月吉日」と読めます。1863年に作られたもののようです。

アクセス情報

名称:千片神社跡
所在地:横須賀市根岸5-19-19(根岸町内会館裏)
アクセス:京浜急行「北久里浜」駅より徒歩750m
駐車場:あり(根岸町内会館のもの。車での来訪可能かどうかは事前に町内会に問い合わせをしてください)

近戸神社(鴨居村)

『新編相模国風土記稿』には「千賀止美夜宇之無也志呂(ちかとみようしんやしろ)4」と万葉仮名が振ってあります。『三浦古尋録』には神社そのものの記載がありません。

詳しい情報がない神社なのですが、こちらも義村を祭神とする神社だったと考えられているそうです。横須賀市のウェブサイトで公開されている『三浦一族の史蹟道』にはこう書かれていました。

義村を祀る神社は横須賀市の鴨居に近戸(ちかど)神社、大津町に千片(ちかた)神社があったが、文字こそ違うが、「ちかどの」「ちかた」「ちかど」というのは、義村を指すようである。

『三浦一族の史跡道』三浦一族 散策コース紹介|横須賀市

近戸神社という神社は三浦半島の外にもたくさんあります。民俗学研究の大家柳田国男はこのような説をもっていました。

遠戸と近戸は近世の語でいえば大手と搦手(からめて)であって、関東地方では遠戸神・近戸神という神様が無数にある。奥羽の方へ行けば近戸森、遠戸森と変形する。

図書カード:名字の話 | 青空文庫

歴史学者の井上智勝によると、立場のある武家では17世紀後半以降に追善・顕彰などを目的として先祖や自分自身を神に祀ることが増えたといいます。

参照: 近世神社通史稿 | 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ

三浦義村が神社に祀られるようになったのはこういった動向の一環だったのかもしれませんし、それよりも以前から神様だったのかもしれません。「ちかた」「ちかと」は近戸・遠戸と関係あるのかもしれませんし、ないのかもしれません。義村の神社が横須賀市内にいくつもある(あった)ことによって想像が膨らむのはおもしろいことです。

三浦義明の息子(三浦義村の叔父)多々良義春は鴨居を領していました。多々良氏にまつわる場所を巡る記事はこちら。

赤星友香
赤星友香

横須賀ぷらから通信主宰。クロシェター / ライター。普段はpiggiesagogoという屋号で編み図を作ったり、別館1617という自主レーベルで本を作ったりしています。横須賀育ちの北関東在住で、わりとつねに三浦半島に行く口実を探しています。

  1. 以前は「ちかとのみようじんやしろ」と書いていましたが、古い万葉仮名では「度」は「ど」、「志」は「し」の読みだったので念のため修正しました。ただし「新編相模国風土記稿」においては濁点のつく・つかないは意図して書き分けられていなかったと考えられます(2023年1月7日)
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  3. 以前は「ちかたみようじんやしろ」と書いていましたが、古い万葉仮名では「太」は「だ」、「之」は「し」の読みだったので念のため修正しました。ただし「新編相模国風土記稿」においては濁点のつく・つかないは意図して書き分けられていなかったと考えられます(2023年1月7日)
  4. 以前は「ちかとみようじんやしろ」と書いていましたが、古い万葉仮名では「之」は「し」の読みだったので念のため修正しました。ただし「新編相模国風土記稿」においては濁点のつく・つかないは意図して書き分けられていなかったと考えられます(2023年1月7日)
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