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【汐入】横須賀マンボを探して(おたずね編)

前回「横須賀マンボ」について書いてから、いくつかわかったこと(と、そのせいでさらにわからなくなったこと)がありました。横須賀マンボってそもそも何? ということについては、前回の記事をお読みください。

今回は上の記事を書いたあとさらにわかったことをご紹介しつつ、それでもなおわからないな……ということについて読者のみなさまにお伺いしたい、「おたずね編」です。具体的には、1960〜70年代にかけて横須賀市汐入町・本町・大滝町・若松町あたりにあった仕立屋・洋裁店について知りたいなと思っています。当時どんな商売をしていたか。売れ筋の商品について。などなど。なんで知りたいの? ということを、まずはご説明します。

1966年は「横須賀マンボTシャツ」の年

「横須賀マンボ・Tシャツね」という歌詞が登場する山口百恵の「I CAME FROM 横須賀」。リードトラックとなっているアルバム「百恵白書」を聞きながら、「横須賀マンボ・Tシャツ」と1960年代に注目してみたいと思います。

「平凡パンチDELUXE」に横須賀マンボが登場

前回、横須賀マンボは1960年代後半から70年代前半くらいに流行したようだ、ということを書きました。それからまた少し調べていて、どうやら大手メディアで取り上げられたのは1966年が最初なのではないか、というところまではたどり着くことができました。当時の雑誌から引用します。

人の噂に、昨日も聞いた今日も見た、ヨコスカ・マンボが出たという。ヨコスカ・マンボとは何か、と思ったら、かつてのアメリカ下層階級の風俗がアレンジされて出回っているのだと。なる程、いたいた。だけどこれ、ヨコハマ、ヨコスカ辺りでは戦後久しく変わらぬ風俗であったはずだ。リーゼント、薄いシャツの裾を出し、腰回りのダブついたズボン、先細りのズボンの裾、白っぽい靴下、スリッポン・シューズ、下級兵士、沖仲仕、お店の入り口に群れる人達の風俗が若い人らしい新風俗にすり変わっているところが楽しいじゃありませんか。

「平凡パンチDELUXE」1966年11月号

この記事を書いたのは、1970年代、ファッションイラストレーターとして一世を風靡する小林泰彦です。記事中には小林の手による横須賀マンボのイラストも掲載されていました。

さて、「人の噂に、昨日も聞いた今日も見た、ヨコスカ・マンボが出たという」とはまるで妖怪のような書きぶりですが、横須賀マンボというスタイルが当時口コミで広がっていったファッションであるという予測はまあまあ当たっていたようです。

ただ他人ごとのように書いている小林自身も、横須賀マンボを広めるのに一役買っていました。翌年、1967年には「平凡パンチ」本誌のほうで葉山で遊ぶベトナム帰りの米兵を取材し、その際に横須賀のどぶ板通り周辺と横須賀マンボについても触れています。

例のヨコスカ調の裾の細いスラックスは、さすがにヨコスカ名産という感じで、専門の仕立て屋がある。仕立て上がり千五百円、二千円、二千五百円という仕立てにしてはリーズナブルだ。ヨコスカ・モードはすべて値段の安さにささえられているわけで、正しくポップ・モードであると感心する。

小林泰彦『ヤマケイ文庫 イラスト・ルポの時代』(p. 41)山と渓谷社, 2018年。初出は「平凡パンチ」1967年10月号

誰がそう名づけたのかはまだわかりませんが、横須賀マンボが東京のファッション業界周辺に華々しく登場したのが1966年だということはわかりました。

カットソーが下着から街着へ

続いては「横須賀マンボ・Tシャツね」のTシャツのほうです。調べてみると、もともと下着扱いだったカットソー(当時は「メリヤス」などとも呼ばれていました)が普通のファッションアイテムとして使われるようになったのがちょうど1960年代後半だったようです。

以前には、下着のカテゴリーに属していたTシャツがトップ・シャツとして、カジュアル・ファッションの重要なアイテムになった。丸編みを生地に使う”カットアンドソーン”がニット業界の金鉱脈になる。
六六年の夏には、サマー・セーターが大爆発をおこした。コットンのバルキー・セーターが若者の人気をさらった。
(中略)
六六年は、ニットがファッションの主役に躍り出た記念すべき年となった。ニットファッション革命元年である。

佐藤嘉昭『若者文化史 Postwar, 60’s, 70’s and Recent Years of Fashion』(pp. 130-132)源流社、1997年。

ここまで来ると「横須賀マンボ・Tシャツね」という印象的な歌詞の意味がなんとなく見えてきます。横須賀マンボもTシャツも、どちらも60年代の後半に(とくに66年という年に大きな印象を残して)ぱっとどこからともなく現れ、若い人たちを魅了した流行だったというわけです。

「I CAME FROM 横須賀」を作詞作曲した阿木燿子・宇崎竜童コンビはこのころ20歳前後です。輝いて見えた、とてもかっこよく思えた当時の「横須賀」を、同じ土地から出てきた人気歌手に10年ちょっと経ってから仮託したのかもしれません。

既製服の時代

さて、それではどうして横須賀には横須賀マンボというムーブメントが生まれたんでしょうか。小林泰彦が報告しているような「専門の仕立て屋」は、今ではもちろん見つけることができません。どうすればいいかなあと思って、とりあえず古い地図と、商工会議所が出していた商工名鑑、それに横須賀市史を見てみました。

今回確認した資料は、1954、1958、1961、1970年それぞれに横須賀商工会議所が刊行した「横須賀商工名鑑」(1954年のものだけ「横須賀 三浦 商工名鑑」になっています)、1960年に明細地図社が刊行した「横須賀市明細地図」、それに『新横須賀市史 別編◇民俗』です。いずれも横須賀市立中央図書館で閲覧することができます。

横須賀市立図書館 | 横須賀市立図書館のホームページ
横須賀市立図書館のホームページ

とくに1954年と1970年の商工名鑑には地図が掲載されていたので、明細地図や商工名鑑の事業者名簿と照らし合わせてみました。洋服に関連する事業者がどのくらいあったのかを確認すると、びっくりすることに、とてもたくさんあったんです。

横須賀の仕立屋・洋裁店・洋品店

商工名鑑の事業者名簿を見ていると、「洋服仕立」と「洋裁」、それに「洋品」がそれぞれ違う業態として区別されているのがわかりました。まだ自信がないのですが、おそらく「仕立」が紳士服のオーダーメード(手縫いの技術が必要)、「洋裁」が女性服のオーダーメード(ミシンを使う)という分け方になっているのではないかと思います。「洋品」はもしかしたら完成品や部品などを多く扱うお店だったかもしれません。

このようなお店が1960年代にどういった商売をしていたのかについては、『新横須賀市史 別編◇民俗』にヒントがありました。現在も大滝町の三笠通り商店街にある「ピンク洋装店」に、お店の歴史を聞き書きした記録が掲載されています。この記事では市史のもとになった『市史研究横須賀 第9号』を参照します。

市史編さん事業《市史の刊行物》|横須賀市
市制100周年を記念して平成11年度から始まった「市史編さん事業」の「刊行物」について説明したページです。これまでに既刊した刊行物についての価格や簡単な内容のほか、目次やチラシをリンクで見ることができます。

それによると、1950年に開業したピンク洋装店は当初オーダーメイド専門で出発。デザイン・縫製をすべて自分たちでまかなっていたそうです。

1960年代に入ると徐々に既製服販売の比重が大きくなっていきます。1964年、東京オリンピックが開催されるころには既製服がメインとなりました。

既製服への切換は、そのタイミングが難しい。(中略)切換のタイミングを逸し、遅くまでオーダーメードと生地販売にこだわった店は、時代に乗り遅れて廃業せざるを得ない結果となった

『市史研究横須賀 第9号』(p. 138)2010年

また、1960年代後半からの一時期、イージーオーダーが流行したこともわかりました。現在だとオーダースーツの大半や学校の制服がイージーオーダーで作られます。女性服はあまりイージーオーダーに向かず、流行はすぐに下火になったようです。

「横須賀マンボ専門の仕立て屋」

ピンク洋装店は女性服の例ですが、男性向けに仕立をしていた数々の仕立屋も、大きくは同じような道をたどったのではないかと予想できます。つまり高度経済成長に入るか入らないかくらいまではオーダーメイドが主流で、そののち既製服の人気がどんどん出てきた。そしてこの記事としてはここが重要なのですが、横須賀マンボが流行った1960年代後半というのはそのちょうど端境期にあったということです。

つまり小林泰彦が「横須賀マンボ専門の仕立て屋」と呼んだ価格の安い仕立屋群は、仕立から既製服への転換期にあって、生き残りのための過当競争もしくは一点特化を行っていた可能性があります。このころ横須賀にあった仕立屋がどのようなお仕事をしていたのか、それがわかれば横須賀マンボのことがもう少しわかりそうな気がするんです。

今回歩いたルート(そして、おたずね)

汐入_横須賀マンボを探して(おたずね編) - Google My Maps

ラッキーなことに、商工名鑑の事業者名簿と地図のおかげでどこにどんなお店があったかまでは把握することができました。それらの情報を手がかりに、仕立屋・洋裁店が集中していたエリアを歩きます。

現在の写真から、もし昔そのあたりに洋服のお店があったことを思い出した方、それらのお店について何かご存じの方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡をいただけないでしょうか。すでに対象となっているお店は(おそらく)すべて廃業してしまっているため、何か手がかりがあるといいなあと思っています。

本町周辺

まずは汐入駅から出発し、横須賀中央駅方面に向かって歩きます。

どぶ板通り

出典:「横須賀市明細地図 No. 1」明細地図社, 1960年。団体名義の著作物で著作権保護期間が終了しているため掲載しています。
横須賀芸術劇場うら

再開発を逃れて、かなりまとまって古い建物が残っているこの一角。「丸善洋服」「ヴォーリ商会」といった仕立屋・洋裁店がありました。この一角のほとんどが洋服屋さんだった時期もあるようです。

ちなみにこの場所、これと同じ方向からは石内都が、左手奥に見える汐入駅のホームからは森山大道が、それぞれ写真に収めている場所でもあります。

中華料理「一福」周辺

古い地図にも所在が確認できる一福ですが、この並びにもいくつかの仕立屋・洋裁店がありました。

どぶ板通り

どぶ板通りの16号と平行するエリアは米兵向け土産物屋(いわゆるスーベニヤ)や飲食店のほうがたくさんありました。そのため数としてはそこまでではありませんが、いくつかの仕立屋・洋裁店がありました。

国道16号周辺

出典:「横須賀市明細地図 No. 1」明細地図社, 1960年

この地図は北が左を向いているので少々分かりにくいですが、横須賀中央の駅前通りと国道16号線がぶつかる交差点周辺です。このあたりにも仕立屋・洋裁店が集中していました。

古い建物群

この低層の建物群のあたりには「川島洋服」「中沢洋服」などが。

ニッポンレンタカーのある交差点

向かいの交差点にも「チェリー洋裁」「テイラーMOGEE」など。ちなみにニッポンレンタカーの駐車場があるあたりは昔から自動車屋さんで、その向かいには法塔ベーカリーがあったようです。

横須賀の老舗パン屋 法塔ベーカリー[ホウトーベーカリー]
大正13年創業の横須賀の老舗べーカリー「法塔べーカリー」のホームページへようこそ。京急浦賀駅の構内にある店舗「ホウトーベーカリー」をはじめ、昔から小学校の学校給食や中学校のパン注事業などもおこなっており、現在も横須賀市内の高校売店で販売しています。

マンボスタイルとジョージ川口

ジョージ川口の手形

閑話休題。1955年12月25日の「週刊読売」には、ジャズドラマーのジョージ川口が「マンボスタイルは自分が流行らせた」と名乗りを上げる記事が掲載されていました。

時代を下ること40年後、1995年9月27日の「毎日グラフ・アミューズ」では、ジャズ評論家の油井正一が「たしかあのころジョージさん達の服装が、若者のファッションとなったように記憶しています」と言っています。

ジョージ川口は戦後わりと早い時期から横須賀で演奏していたミュージシャンのひとり。そのこともあってどぶ板通りに手形レリーフを残すひとりに選ばれたようです。戦後すぐの横須賀とジャズミュージシャンは切っても切れない関係にありましたから、そのあたりに横須賀マンボの源流を求めることもできるかもしれません。

手形を探すのはやや苦労しました。ジョージ川口のものは「Kadoya」の前にあります

では「マンボスタイル」とはどういうものなのか? 前回の記事では1950年代に流行した音楽のマンボに関係があると書きました。先ほど紹介した1966年の「平凡パンチDELUXE」上では、小林泰彦も1954年のマンボスタイルを振り返ってこう書いています。

あれは戦後の男の服のひとつのピークじゃなかったろうかと思うのよ。あの、変にフォーマルがかった感じ、色は赤と黒、極端にウイングしたカラー、凄かったねえ

「平凡パンチDELUXE」1966年11月号

一方、マンボではなくジャズの演奏家であるジョージ川口ですが、1995年のインタビューによるとこんな格好をしていたようです。

肩のパットを目一杯詰め込んだ真っ白いスーツに、足の動きをよくするために裾口を細く絞ったマンボズボン。あるいは真っ赤なタキシードに金の靴、銀の靴……ピカピカのをはいていました

「毎日グラフ・アミューズ」1995年9月27日

言葉だけだと少し想像がしにくいですね。メンズのフォーマルウェアの形式にのっとりつつ、ズボンは先細りのテーパード、ジャケットはわりとたっぷりとしていて肩まわりがしっかり、というV字型のスタイルです。サスペンダーや靴などの小物類にゴールド・シルバー・赤などの派手な差し色を使うのも流行ったようです。

得た情報から編んでみました、ブタサン・マンボです

小林泰彦は紙上に1950年代マンボスタイルのイラストも載せているのですが、勝手に転載するわけにもいきません。というわけで、得られた情報から自分なりのマンボスタイルを編んでみました。ただし、ブタですが……。

襟がぐっと大きく反っていて、サスペンダーで極端な先細りのズボンをつり、ぴかぴかの靴を履く。「横須賀マンボ・Tシャツね」と比べるとだいぶかっちりとフォーマルなスタイルに見えますが、ジョージ川口の言うようにもともとがジャズミュージシャンの舞台衣装なのだとしたらそれもむべなるかな、という印象です。

ではなぜジャズミュージシャンのスタイルが「マンボ」と呼ばれたのか。ジョージ川口らのファッションが若者に流行したのと、マンボという音楽ジャンルそのものやマンボダンスが大流行したのがタイミング的に重なったのは間違いありません。おそらくそのせいで両者が結びついたのではないかと思うのですが、まだちょっと確証がありません。

ちなみに脱線ですが、ジョージ川口は映画『嵐を呼ぶ男』主人公のモデルになったと言われています。主演は石原裕次郎。石原慎太郎・裕次郎兄弟は逗子と切っても切れない縁がある……ということで、このころの若者文化と三浦半島との関係性についても改めて考えてみたくなります。

さらに脱線しますが、横須賀とジャズについてはこちらもどうぞ。

大滝町周辺

さて、横須賀マンボとまちあるきに戻りましょう。1967年の「平凡パンチ」で小林泰彦が取り上げているのはおもにどぶ板通りですが、1960年代に仕立屋・洋裁店が集中していたのはどちらかというと横須賀中央駅周辺でした。

セブンイレブンのあるマンション

現在はマンションになっているこのあたりには、1960年代アイススケート場があったようです。そして仕立屋や洋裁店もちらほら。

出典:「横須賀市明細地図 No. 1」明細地図社, 1960年

さすがというべきか、さいか屋の周辺にはたくさんの仕立屋・洋裁店がありました。千日通りは当時と今で区画がほぼいっしょ。市役所前公園の場所も変わらないので、横須賀にお住まいの方ならなんとなく雰囲気が掴めるのではないかと思います。

旧石渡洋服店

とくに仕立屋・洋裁店が集中していたエリアのうち、とくに写真の建物群は当時から残っているようです。左官仕上げの丸い壁が印象的な建物は、旧石渡洋服店。

出典:「横須賀 三浦 商工名鑑」横須賀商工会議所, 1954年

1954年の商工名鑑に掲載されていた石渡洋服店の広告です。2階の窓がルーバーになっていますが、それ以外は今とほとんど変わらないのがすごい。

背の低い建物群が昔から残っているものだと思います

この並びと仕立屋・洋裁店がご記憶に合致する方、いらっしゃるでしょうか。

若松町周辺

横須賀中央駅前Yデッキから大滝町方面

横須賀中央駅がある若松町周辺もかなり仕立屋・洋裁店が集まっていました。写真だと遠くに見切れていますが、大滝町にある三笠通り商店街にはとくにたくさんの洋裁店があったようです。先ほど紹介したピンク洋装店以外はほとんど廃業してしまったみたいですが……。

ザ・プライムのある区画はビルが寄せ集まった路地になっています

横須賀中央駅からYデッキ(歩行者デッキ)で直結している商業ビルのザ・プライム。地上に降りてビルの裏に回ると、いくつかの雑居ビルのはざまに路地ができています。

現在ではこの路地くらいしか当時の面影をしのべる場所が残っていません。1960年代当時は小さな建物が集まる区画だったようです。このあたりにも複数の仕立屋・洋裁店がありました。

情報、お待ちしています

そんなわけで、少々尻切れトンボですが今回はここでおしまいです。たまたま仕立屋・洋裁店が集中していたエリアには古い建物が残っている確率が高かったため、映像の記憶から思い起こしていただくこともできるんじゃないかと期待しています。

歩いたルートの仕立屋・洋裁店について、何かご記憶の方がいらっしゃいましたら、ぜひぷらからのお問い合わせフォームからご連絡をいただけますでしょうか。お問い合わせフォームは下記のページ、中段にあります。ぜひぜひどうぞよろしくお願いいたします!

赤星友香
赤星友香

横須賀ぷらから通信主宰。クロシェター / ライター。普段はpiggiesagogoという屋号で編み図を作ったり、別館1617という自主レーベルで本を作ったりしています。横須賀育ちの北関東在住で、わりとつねに三浦半島に行く口実を探しています。

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