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【浦賀】多々良氏の里、鴨居~名馬池月の伝説

三浦大介義明には息子が沢山いました。その中の4男・多々良義春(たたら よしはる)が領したのが鴨居(かもい)です。「たたら」という名前から、たたら浜から採れた砂鉄で製鉄していたとも言われていますが、実際のところはよくわかっていません。

しかし、鴨居にある八幡神社には多々良義春が祀られていて、地元の伝承では海賊を退治したという伝承もあります。

今回のお散歩コース

鴨居_多々良氏と名馬池月 - Google My Maps

浦賀駅からバスに乗り、鴨居へ。その後観音崎(かんのんざき)で乗り換えて、馬堀海岸(まぼりかいがん)の馬頭観音へ行きます。

浦賀駅の顔出しパネル

浦賀駅に着いたら、バスターミナルの1番乗り場へ。「鴨居バス停」で下車します。

鴨居バス停

バス停から降りたらちょっと戻って、三つ角まで行きましょう。

ちなみに今回は「かもめ団地行き」に乗りましたが、「観音崎行き」は八幡神社の目の前にバス停があります。

右に曲がると、鴨井八幡神社ですが、今回は先に左に曲がってみましょう

西徳寺

浦賀へ戻るバス停の前にあるお寺が、第1の目的地「西徳寺(さいとくじ)」です。

西徳寺への階段

西徳寺自体は、室町時代の永祿元(1558)年に創建されました。鎌倉の材木座にある光明寺(こうみょうじ)の末寺で、周辺にあったいくつかの廃寺をまとめたものといわれています。

境内には「和田地蔵」と呼ばれる地蔵があります。

源平合戦が始まる前のこと。和田義盛がここに流れていた川に地蔵を沈め、「この戦に勝つなら上流へ、戦に敗けるなら下流へ」と占ったところ、川を上っていきました。義盛は大喜びでお堂を建ててその地蔵を祀ったという伝承があります。

見ると小さいけれど、普通に石のお地蔵さんです。川を上るどころか、下流へと流されることなんてあったのでしょうか……もしかしたら目の錯覚かもしれないけれど、そんなところがちょっと和田義盛っぽいですね!

また、境内の奥には「義盛の髭剃塚」と呼ばれる史跡がありますが、この由来はわかっていません。

鴨居八幡神社

次に先ほどの三つ角に戻り、左に曲がって海沿いを進むと、鳥居があります。それが多々良義春を祀る鴨居八幡神社です。

鴨井八幡神社鳥居

鴨井八幡神社は鴨居に遊びに来た源頼朝が養和元(1181)年6月、多々良義春に命じて建てたものと伝わっています。

その理由はおそらく、義春の息子である重春のことがあるからでしょう。多々良重春は治承4(1180)年に、三浦と畠山が戦った由比ヶ浜合戦で命を落としています。この時に犠牲になった人々のことを頼朝は忘れませんでした。

観音崎

鴨井八幡神社のすぐ前にあるバス停からは、観音崎へと行けます。実は観音崎あたりに、多々良義春の屋敷があったと言われていますが、観音崎は太平洋戦争の時に軍用地となったため、当時の遺構は残っていません。

けれどバス停を乗り換える時間、少し海を眺めて思いを馳せてみましょう。

観音崎

観音崎バス停で乗り換えて、馬堀(まぼり)中学バス停まで行きます。できれば右側の座席に座りましょう! ヤマトタケルとオトタチバナヒメの伝説がある走水(はしりみず)のあたりは、湾の向こうに富士山が見える絶景スポットです。

西海岸側なのに富士山が見えるのは不思議な感じもしますが、地図で見ると納得……。

浄林寺馬頭観音

絶景を堪能し、馬堀中学バス停で下車したら、横断歩道のある交差点まで戻ります。

馬堀中学

坂を登っていくと、お目当ての馬頭観音のお堂があります。

馬頭観音

ここは、地名である「馬堀」の由来となった馬を祀る場所です。以前にも他のライターさんが訪れていますが、より詳しい解説を。

昔、房総半島の嶺岡(みねおか=現・千葉県鴨川市南部)という場所に「荒潮(あらしお)」という暴れ馬がいました。村人たちはどうにか馬を追っ払いましたが、馬は海を渡って三浦半島の小原台(おばらだい)に辿り着きました。

小原台は現在の横須賀市の地名にも残っていて、鴨居に行く途中にバス停もある住宅地です。

海を渡って疲れた馬が岩を蹴って掘ると、清水が湧き出てきました。その水を飲んだ馬はたちまち美しい馬に生まれ変わり、「美女鹿毛(びじょかげ)」と呼ばれました。

そしてその噂を聞いた三浦義澄(みうら よしずみ)が美女鹿毛を捕まえて、源頼朝に献上しました。頼朝はまた新たに「池月(いけづき)」と名付けました。

その後、池月は佐々木高綱に与えられ、『平家物語』で語られる宇治川の先陣争いを繰り広げるのでした。

馬が掘った場所から清水が湧き出て、井戸となったのでこの辺りを「馬堀」と呼ぶようになり、今も霊水が湧き出ているそうです。

伝説の湧水

また、名馬のゆかりの地ということで、軍用場や競馬で活躍した名馬のお墓もありました。

体は小さいけれど、脚はがっしりとしている。日本在来馬っぽい躍動感あふれる馬の像。

ちなみに……

伝承にツッコミを入れるのは野暮なこととは思いますが、これはこれで面白いので一つ。

馬が最初にいたと言われる、房総半島の嶺岡。実は江戸時代の馬牧場なんですよね。だから江戸時代に作られた話なのかな~……と思いきや、嶺岡は平安時代末は長狭氏の領地。そう、三浦一族のライバルであり、和田義盛の父杉本義宗の仇!

頼朝が房総半島に逃れて鎌倉を目指す時、三浦義澄が露払いで討ち取った、あの長狭氏の領地です! 逃げて来た頼朝や北条氏、三浦一族の馬を用意するのに、長狭氏の馬を奪った可能性もあります。

編集部注:石橋山の合戦で敗走した源頼朝は千葉県内を移動していました。「吾妻鏡」によると、1180(治承4)年9月3日、民家に宿泊した源頼朝を長狭常伴が襲撃しようとしますが、この計画は事前に三浦義澄に露見して長狭氏は討ち取られてしまいます。このとき義澄が「露払いをしておきました」と言ったと伝えられてもいます。2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではこの役割を三浦義村が演じていました。

そして、「名馬池月の産地である」という伝承は日本各地にあります。よって三浦が池月の産地というのはマユツバだなぁ……と思いつつも、三浦義澄が頼朝に「髪不撫(かみなでず)」という名馬を献上したという記録が『吾妻鏡』にあります。

だから、いくつかの馬の話が組み合わさって、この伝承になったのかなぁと思っています。

というわけで、帰りは歴史と伝承の狭間に思いを馳せつつ馬堀海岸駅まで歩いてもよし、バスで横須賀まで出てもよし!! 鴨居のお散歩コースでした!

<meta charset="utf-8">樽瀬川 真人
樽瀬川 真人

三浦半島の付け根で生まれ育ち、地元の歴史を調べていたらいつのまにか鎌倉時代の三浦の海の底にいた。 

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