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【JR衣笠】三浦一族の本拠地!大矢部に行こう【三浦一族史跡めぐり】

平安時代中期から鎌倉時代前期まで、三浦半島一帯を支配していた三浦一族。衣笠山にある一族の象徴である衣笠城で武芸の稽古をし、普段は麓の里で暮らしていました。その里が、現在の地名に残っている矢部郷です。

矢部は三浦一族ゆかりの史跡がギュッと詰まっている、三浦一族スポットです。

今回のお散歩ルート

大矢部_三浦一族史跡巡り - Google My Maps
大矢部_三浦一族史跡巡り

最寄りバス停「衣笠城址(きぬがさじょうし)」へは、いくつかバスの路線があります。詳細は「衣笠城」の記事を参照してください。

バス停から満昌寺(まんしょうじ)→近殿(ちかた)神社→三浦義澄(みうら よしずみ)墓→薬王寺山門跡(やくおうじ さんもんあと)→切腹松(はらきりまつ)公園→清雲寺(せいうんじ)と、ぐるっと一周。約30分ほどのお散歩ルートです。

今回のルートはほぼ平地。鎌倉時代当時、この辺りは近くまで入り江になっていたことを想像しながら想像しながら歩いてみましょう! 

また満昌寺と近殿神社にはAR対応の案内板があり、案内板のQRコードを読み込むと、なんと三浦一族自ら案内してくれますよ!

満昌寺

まず「衣笠城址」バス停を降りて、前方の十字路を左に曲がります。

衣笠十字路バス停(下り、林・三崎口方面行き)から「衣笠インター入り口」交差点を見た写真。右前方に「レッドバロン」が見えます。
バス停から見た十字路。横断歩道は渡らずに左へ。

5分ほど歩くと、満昌寺(まんしょうじ)があります。

満昌寺山門の写真。入り口向かって右手には「満昌寺」の石碑があります
800年以上の歴史があるお寺です。

満昌寺の物語

満昌寺は三浦一族の長、三浦義明(みうら よしあき)の菩提寺です。三浦義明は源平合戦が始まった時に89歳でした。先祖代々の源氏の家人として、源頼朝(みなもとの よりとも)が平家に反旗を翻したことを喜び、さっそく息子の三浦義澄(よしずみ)を大将にして、三浦一族を頼朝の元へと派遣しました。

ところが、台風のために足止めに遭ってしまい、頼朝は敗走して生死不明となってしまいました。三浦一族が引き返す途中、平家の家人と鉢合わせとなり、合戦となってしまいました。

一旦、義明の待つ館まで引いた三浦一族ですが、敵はすぐそこまでやってきました。そこで義明はひとりで衣笠城に残り、一族郎党を逃がす事に決めました。

「お前たちは必ず頼朝様と合流しなさい」

菊池容斎『前賢故実』巻第7より、三浦義明の上半身の肖像画です
菊池容斎『前賢故実』巻第7 三浦義明 (国立国会図書館デジタルコレクション

三浦一族は泣く泣く義明を置いて久里浜から船を出し、房総半島へ脱出しました。そして伊豆から同じように船で逃げてきた頼朝と奇跡の再会を果たしたのでした。

それから源平合戦で平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開いた頼朝は、ある日こう言いました。

「三浦義明の立派な最期があったから、三浦一族がこうして生き延び、私を助けてくれたのだ。だから義明の為に三浦に立派な墓を建てよう」

そして建てられたのが、この満昌寺です。

満昌寺の案内

境内には頼朝御手植えの、樹齢800年のつつじがあります。頭を突っ込むと頭痛が治ると言われていますが、現在は保護されているので、もちろん頭を突っ込めません。

そして裏山には義明とその妻の墓。国の重要文化財である三浦義明座像や、義明のものと伝わる太刀や帷子(からびら)などが安置されている宝物殿があります。

境内には自由に入れますが、本堂や墓、宝物殿を見学する場合は予約が必要です。事前に連絡するとご住職自ら案内し解説してくれます。

住所横須賀市 大矢部 1-5-10
公式サイトhttps://manshoji.com/

近殿神社

満昌寺を出て左に進みましょう!

大矢部1丁目のバス道路沿いにあるリサイクルショップ手前の写真です。その先はセブンイレブンが見えています。
リサイクルショップとセブンイレブンの間を曲がると
リサイクルショップとセブンイレブンの間にある細い道を曲がると、突き当たりに近殿神社の鳥居と社殿が見えます。
鳥居が見える!

ここが、近殿(ちかた)神社。2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で山本耕史さんが演じる三浦義村(みうら よしむら)を祀る神社です!

義村の墓は彼がお気に入りだった金田にありますが、それとは別に神社が建てられるなんて……よっぽど領民にとっては素晴らしい殿様だったんでしょうね。

住所横須賀市大矢部1-9-3

三浦義澄の墓

お参りを済ませたら、大通りには戻らず、そのまま奥へ進みましょう。うっかりしていると通りすぎちゃいますが、「薬王寺旧跡」という石碑がちょこんと建っています。

近殿神社の前を通る細い道をまっすぐ行くと、墓地の先に小さな黒い石碑が見えます。
さりげなさすぎる石碑

その奥にあるのが三浦義澄(みうら よしずみ)の墓です。

黒い石碑には「薬王寺旧跡」と掘られています。石碑に向かって右手には路地が伸びており、突き当たりには三浦義澄の墓所があります。
町内会で愛されてる感じの雰囲気がある

三浦義澄について

三浦義澄は、義明の子で、義村の父です。義明亡き後、三浦一族の長として源平合戦に参加しました。幕府の重鎮として、相模国の武士の代表として「頼朝様に物申せる立場」でもあります。

頼朝の死後は13人の合議制の1人として、頼朝の息子である2代目将軍・頼家(よりいえ)を支えました。

菊池容斎『前賢故実』巻第8より、三浦義澄の肖像画。
菊池容斎『前賢故実』巻第8 三浦義澄(国立国会図書館デジタルコレクション

2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも、出てくることは確実ですが、令和3(2021)年4月現在、まだキャストは発表されていません。息子の義村が山本耕史さんなので、一体どんなイケオジがキャスティングされることやら……ドキドキしちゃいますね!

薬王寺山門跡

義澄の墓にお参りを済ませたら、また来た道を進みます。小さな十字路に出たら右に曲がりましょう!

これまで来た道をまっすぐ進むと、小さな十字路に出ます。
ここを右に

真っすぐ行くと、花壇のようなスペースに大きな木と石碑や地蔵があります。ここが薬王寺山門(さんもん)跡。山門とはお寺の正面玄関にあたる大きな門の事です。

十字路を右に曲がって少し進んだ先、右手に相生の木が生えています。根元にはいくつかの石碑や石造物が残されており、住民の手によって花が供えられています
薬王寺山門跡

薬王寺敷地内にあったとされる義澄の墓と、この山門。周辺は完全に住宅地となっていて当時の様子を想像するのはちょっと難しいですが、地域住人に大切にされている様子がうかがえます。

腹切松公園

そのまま大通りに出て、向こう側に渡りましょう! そしてローソンの横にある道から入って橋を渡った後に右に曲がります。

見えてきた公園が、腹切松(はらきりまつ)公園です。

腹切松公園の北東側にある擁壁に面した交差点の写真。
出入口は北側なので、左に曲がりましょう。

腹切松なんておどろおどろしい名前の公園ですが、実際はごく普通の広々とした児童公園です。

腹切り松公園の敷地内。足元は細かな砂敷きになっており、園の隅には何本かの桜の木が植えられています。遊具はブランコや動物遊具が写っています。
スカっ子が元気に走り回っています。

なぜこんな名前がついていたかというと、三浦一族に関する民間伝承からです。

源平合戦の時に一族郎党を逃がした三浦義明が、城を脱出して逃げると、愛馬がここの松の木の下で動かなくなってしまいました。そこで義明は「ここが運命だ」と悟り、松の木の下で切腹したと言われています。

三浦大介義明の腹切松と伝わる松の木は、公園の一角にあります。フェンスでまわりを囲ってあり、その中にはいくつかの石碑が建てられています。
三浦義明の腹切松

現在、公園の一角にある松の木は当時からあるものではなく、数代目だそうですが、この地に残る伝承を今でも大切に残しています。

住所横須賀市大矢部5-18

清雲寺

切腹松公園を出て右へ進み、突き当りを右に曲がります。

腹切松公園の南側出口を出て西に進んだ丁字路の写真。
ここを右。
丁字路を左に曲がった先にある丁字路の写真。
さらに突き当りを左に曲がると……
3つ目の丁字路の写真。
また突き当りなので、左に曲がる。
最後の丁字路を左に曲がった先にある、右に曲がる細い道がある交差点。
すぐある右への曲がり角に入る。

この道はわりと車の往来があるので気をつけましょう! しばらく進んで坂を登るとまた横道があります。

清雲寺入り口手前の写真。
ここを右に。

すると階段があります。ここが清雲寺(せいうんじ)の入り口です。

清雲寺の敷地内に上がる階段。真ん中にステンレスの手すりがついています。
清雲寺への階段

清雲寺は、三浦義明の父である義継(よしつぐ)、その父の為継(ためつぐ)、そのまた父の為通(ためみち)の墓があります。元々は円通寺(えんつうじ)という寺にあったものを昭和14(1939)年に移したものです。

このお寺の本尊も、もともとは円通寺のものでした。宋(中国)から伝わったものといわれ、国の重要文化財となっています。

ちなみに円通寺跡がある山は、現在自衛隊が管理する敷地内にあるので、見学ができないのが残念ですね。

住所横須賀市大矢部5-9-20
公式サイトhttps://seiunji.jp/

静かな住宅街に佇む歴史を感じる散歩道

これでぐるっと回って、約30分。歩いてみると本当に普通の住宅街です。でも風景に溶け込むように、900年~800年の歴史があり、地域の人が大切に残していることが伝わります。

歴史好きなら、一度は訪れて欲しい散歩道です。

<meta charset="utf-8">樽瀬川 真人
樽瀬川 真人

三浦半島の付け根で生まれ育ち、地元の歴史を調べていたらいつのまにか鎌倉時代の三浦の海の底にいた。 

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