
少しだけ歩きたいと思って…
普段降りたりすることの無い馬堀海岸の駅で降りてみた。その日は妙に疲れていたが、心は走り出したい気分だったので、一時間以内にこの駅まで戻ってくると決めて、歩くことを決めた。









気になる方向へただ進む

道路沿いを歩いていく。どこへ行こうか。この時はまだはっきりとは決めていなかったのだが、昔、馬堀小学校の前に、半分ほど土に埋まっている海軍学校の教室があったという気になる話をしてくれた方がいたので、何となくその辺りを歩いてみようと思っていた。



この辺りにも富士見町三丁目の旧道の脇の斜面と同じように横穴が開いていたようだ…。

馬堀町四丁目へ

興味深い坂道を見つけた。こういう場所を見つけると、その先に何があるのかどうしても気になってしまう。坂道が多いのも、横須賀の特徴であり、魅力の一つだ。



少し来るのが遅かったのかもしれない。石垣や電信柱の他に、昭和の影は残されていなかった。
坂を下って、再び元の道へ戻り、四丁目の馬堀小学校がある方向へ進んでいくと、コーヒーショップのような店を発見した。白い外壁に緑の横文字、アーチ型の入口が魅力的だったが、この日は休業日だったようで、店は閉まっていた。

少し調べてみたところ、評判がよくて人気の喫茶店のようだ。ナポリタンが美味しそうだったので、次に馬堀の町を歩くときに入ってみようと思う。




馬堀小学校の前に到着した。40年以上前の馬堀について知っている方のお話によると、この辺りには昔、半分程が土に埋まった平屋の建物群があったという。軍の施設の跡だったのかもしれないが、何故土に埋もれていたのかは謎なんだそうだ。(どうやら砲手養成学校の教室だった可能性があるらしい)

馬堀小学校前の看板にこんな写真が掲載されていた。陸軍重砲兵学校だが、この建物は二階建ての木造学校なので、平屋の建物群とは少し違うように思える。この写真に載っていないところに平屋の教室があったのだろうか。



陸軍重砲兵学校の跡地は、A,B,C,D…と記号分けされた団地になっていた。柏木田の時もそうであったが、特に痕跡は見当たらない。時間は午後四時。柔らかい太陽の光が建物を白く照らしている。そこまで古い建物では無いが、少し懐かしい感情を抱いた。

これまで歩いてきた方向の反対側に目を向ける。あの道の向こうにはトンネルがあり、走水海岸の方へと続いているらしい。だが、走水へ行くのはまた別の機会にしようと思った。今日は馬堀をもう少し歩いてみたい。




馬堀観音堂


この位置に立った瞬間、今日来たかった場所はここだったのだと悟った。馬堀海岸の駅を降りた時から、この階段の先にある観音堂に引き寄せられていたのかもしれない。


立てられた看板には以下のようなことが書かれていた。
昔、千葉県江見町に暴れ馬が出現し、作物を荒らすなどの悪さをしていました。村人は暴れ馬を「荒潮」と名付け、追い払おうとします。馬は村人から逃げるように海を渡り、この地へやってきたのでした。馬は喉の渇きを癒すために蹄で岩を掘ってみたところ、なんと水が湧き出しました。その水で喉の渇きを潤した馬は駿馬に生まれ変わりました。後にその場所が「蹄の井」と呼ばれるようになり、馬堀という地名の由来となったと言い伝えられています。 この噂を聞いた三浦荒次郎義澄が馬を捕獲し、源頼朝に献上して、大変喜ばれました。そして、その馬は「池月」と命名されたのでした。












でこぼこした山道を抜けると、このような場所に出た。しかし…

この先、私道につき関係者以外の通行を禁ず 地主一同
と書かれた立札を発見する。おそらくこの先は防衛大学校の敷地なのだろう。よって、これより先へ進むことは出来なかったのだが、そろそろ帰ろうと思っていたので、むしろ丁度良かった。すでに馬堀海岸駅を降りてから50分以上が経過している。

馬頭観音堂に別れを告げ、今来た道を引き返していく。

帰り道はあろうことか、行きとほとんど同じになってしまったので少し味気ないものに。
ここで突然、名馬「池月」が現れて、ウシガミを馬堀海岸駅まで連れて行ったりする…なんてこともなく、普通に、愉快に、朗らかに、帰路へ向かう。
馬堀はあまり来たことが無かったけど、他にも良いところが沢山ありそうだ。

馬堀海岸駅に戻ってくるのに大体65分かかった。一時間以内に戻ってくるはずだったので、少し時間オーバーしてしまった。ただ、馬堀の地名の由来も知ることが出来たし、普段行かない場所を歩くことが出来たので、むしろ気分が良かった。
馬堀町はまた来たいと思える町だった。さぁ、次はどこへ行こうかな。