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【追浜】三浦半島の戦国武将。徳川家康の次男・結城秀康に仕えた朝倉能登守

戦国時代の三浦半島といえば、前期の三浦道寸(みうら どうすん)・義意(よしおき/よしもと)親子の戦国武将が有名です。しかしもちろん三浦氏が北条早雲に滅ぼされた後の織田・豊臣・徳川の時代にも領主はいました。その1人が「朝倉能登守(あさくら のとのかみ)」です。

名前は景隆、景澄、重信などと複数伝わっていて、はっきりしません。しかし六浦~追浜の地域の歴史には欠かすことができない人物です。

朝倉能登守って何をした人?

「朝倉」という名の武将といえば、天正元(1753)年に織田信長に滅ぼされた越前国の朝倉氏が有名です。朝倉能登守はその朝倉氏の生き残りです。越前朝倉氏が滅亡したあと、小田原北条氏に仕えました。

朝倉能登守は後世には「玉縄(たまなわ)十八人衆」と呼ばれるようになったほどの重要な家臣で、弓と馬の名手でした。北条氏の支配領域のうち、「三浦浦ノ郷」と呼ばれる地域を任されていました。浦ノ郷は現在の横須賀市追浜町・浦郷町・船越町・田浦町の一部などを含む地域です。

滅亡を免れて順調な生活を送っているように見えた朝倉能登守ですが、天正18(1590)年、今度は現在の主君である小田原北条氏が豊臣秀吉によって攻められます。もはやこれまでと切腹しようとした北条氏勝を朝倉能登守が止めました。そして「我は犬なり!」と言ってその場で出家し、以降は朝倉犬也(あるいは丈也)と名乗ります。

小田原北条氏滅亡後は浪人生活を送っていた朝倉能登守ですが、たまたまその生活を垣間見た結城秀康(ゆうき ひでやす)に「飼い置けば必ず益ある『逸物の犬なり』」と評価され、側近として雇われました。すでに老齢ですがその馬術は見事なもので、「若いころはさぞや……」と思われていたそうです。

結城秀康は、徳川家康の次男。令和5(2023年)大河ドラマ『どうする家康』では岐洲匠(きず たくみ)さんが演じています。今後、秀康の活躍が描かれるかはわかりませんが、もしかしたらモブとして、そばに仕えるおじいさんがいたら、朝倉能登守かもしれません。

今回のお散歩コース

朝倉能登守と追浜駅周辺 - Google My Maps

というわけで、今回は朝倉能登守の足跡をたどってみましょう! ゆかりの地は追浜駅の近くに固まっています。朝倉能登守が創建した良心寺(りょうしんじ)、屋敷跡、復興した雷(かみなり/いかづち)神社を巡ります。

良心寺

追浜駅から東口へ降りて、右へ。商店街を進みます。

追浜駅前

しばらく進むと、その名もズバリな「良心寺入口交差点」がありますので、そこを右へ。

良心寺入口交差点

踏切越しに良心寺がババーンと現れます。

良心寺山門

良心寺はもともと室町時代に建てられた曹洞宗の道場でしたが、その後無住となっていました。近辺を領地とした朝倉能登守が浄土宗に改宗し、良心寺として新しく寺院を建てました。

実は朝倉能登守の奥さんが熱心な浄土宗の信者で、良心寺は奥さんのために建てられました。奥さんは天正11(1583)年に亡くなってしまいましたが、お墓は現在も良心寺にあります。

境内は花にあふれて綺麗に整備されています。仲の良い夫婦の心が今も感じられるようで、ホッコリしますよ。

浦之郷陣屋跡地

良心寺をあとにして、もと来た道に出て左に向かいます。

住宅地の細い路地をまっすぐ進んで行き……。

この十字路を左に行きます。

囲いと通学路が目印

道なりに進んで、突き当りを右へ。

すぐに鷹取(たかとり)公園に向かう階段が見えてきます。この階段の横にある建物……地域の集会所である「正明会館」が、朝倉能登守が暮らしていた屋敷の跡地です。この屋敷はのちに陣屋(役所)となりました。

鷹取公園への階段と正明会館

江戸後期になると陣屋の機能は三浦半島の海防の要となるべく大津へ移転しましたが、こうして現在も地域の憩いの場となっています。歴史の繋がりを感じますね。

雷神社

陣屋跡を進んで線路を渡ると、また大通りに出ますので左へ曲がります。

追浜駅を通り過ぎてしばらく歩くと、歩道橋の近くに「雷神社」があります。

雷神社

雷神社は「いかづちじんじゃ」と表記されることもありますが、地元民には「かみなりじんじゃ」の呼び名で親しまれています。

創建は平安時代の承平元(931)年とされていますが、室町時代の永禄2(1559)年に落雷で焼失してしまいました。もともとの所在は現在のみずほ銀行追浜支店の裏手でした。ちなみにこの落雷によって真っ黒こげになってしまったビャクシンの木が、今もみずほ銀行追浜支店裏の駐車場に立っています。

焼失から22年後の天正9(1581年)、朝倉能登守が現在地に社を移転しました。雷神を祀るようになったのもこの頃だという説があります。

プラスのぷらり

実は朝倉能登守ゆかりは追浜駅周辺だけでなく、六浦駅の近くにもあります。プラスの25分ほど、歩いてみましょう。目指すは六浦駅近くの町内会館です。

雷神社から金沢八景駅方面へ向かい、横浜南共済病院を通り過ぎて、古着屋さんのある交差点でラーメン屋さんのわきを左へ曲がります。

線路を渡ったら右へ。

道なりにまっすぐ進んで行きます。

この辺りはわりと車通りが多いのでご注意を。

線路の手前を左に曲がると六浦駅。右手に見える建物が「三艘(さんぞう)町内会館」です。

三艘町内会館の文殊菩薩

三艘町内会館にある文殊(もんじゅ)菩薩像は、朝倉能登守ゆかりのものです。

追浜の良心寺の前身だった曹洞宗の道場では文殊菩薩を祀っていました。この道場を朝倉能登守が浄土宗の良心寺に建て直したのは先ほど説明しましたね。

道場が浄土宗の寺院になったため、文殊菩薩は行き先が無くなってしまいました。そこで当時三艘に住んでいた、曹洞宗の檀家総代・大川段右衛門(おおかわ だんえもん)がここに文殊堂を立てて文殊菩薩を祀ったとされています。現在ではお堂自体は無くなりましたが、文殊菩薩は今も町内会館内にあり、地域の人々を見守っています。

町内会館は普段閉まっていますが、お祭りの日になると解放されます。タイミングがよければ文殊菩薩を見ることができるかもしれません。詳しくは町内会にお問い合わせください。

<meta charset="utf-8">樽瀬川 真人
樽瀬川 真人

三浦半島の付け根で生まれ育ち、地元の歴史を調べていたらいつのまにか鎌倉時代の三浦の海の底にいた。 

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