ちょっと長い前置きと、土屋誠一による石内都論
写真家石内都

写真が好きな人なら、写真家石内都のことをご存じだと思います。横須賀にゆかりをお持ちの方なら、石内が幼少期から大人になるまでの多感な時期を横須賀で育ったことも思い当たるかもしれません。
石内都が最初に注目された展覧会は「絶唱、横須賀ストーリー」というタイトルですし、その後90年代まで数年にわたり、石内は横須賀を撮影したり、横須賀で展覧会を実施したりしていました。そのうちのひとつをご覧になった方もいらっしゃるでしょうか。
石内都(のライトな)ファンのひとりとして、わたしはこの不世出の写真家がいったい横須賀に何を見ていたのか関心があります。この記事のきっかけになったのは「ひろしま/ヨコスカ」という図録。これは2008年から2009年にかけて目黒区美術館で開催された同タイトルの展覧会カタログです。
「ひろしま/ヨコスカ」は、2008年時点における石内都の回顧展といって差し支えないと思います。カタログにはさまざまな筆者による石内都論も掲載され、充実の内容。分厚い。
さて、今回の記事のきっかけになったのは、このカタログに収録された論考のひとつです。美術評論家の土屋誠一によるもので、「「横須賀」、「私」、「女」、そして「石内都」——石内都論」と題されています。
横須賀・YOKOSUKA・ヨコスカ

土屋誠一は石内都の初期作品、つまり横須賀を写した写真群を論じるにあたり、「横須賀」「YOKOSUKA」「ヨコスカ」という表記の違いに着目しました。これはただ単に文字を変えてみただけではなく、横須賀市をどのような側面からどんな街として見るのかに大きく関わってくるのだ、と。まず「横須賀」について土屋はこう言います。
大日本帝国の伸張と軸を一にしたこの地については、帝国という父によって名付けられた固有名として、「横須賀」と表記するのに相応しい
土屋誠一「「横須賀」、「私」、「女」、そして「石内都」——石内都論」 p6 (「ひろしま/ヨコスカ 石内都展」, 目黒区美術館, 2008年)
「帝国という父」とはつまり権力のことであり、社会を家族制度になぞらえたときの強者のことを指します。この場合は戦前の軍港都市「横須賀」が父権を象徴しているというわけです。そして第二次世界大戦に敗戦した日本、そして横須賀は、その父権をアメリカに奪われます。
「アメリカ」という具体的な身体を持った強い「父」によって、その地名は「YOKOSUKA」へと塗り替えられる
同
ドブ板通りを中心とした戦後のけばけばしいネオン、英語ばかりの看板などを眺めて育ったり、写真で見せられたりしたことのある横須賀市民なら、この「YOKOSUKA」という表記にそこまで違和感がないのではないでしょうか。
では、石内都は何を見ていたのか? と土屋誠一は問い、仮説を立てます。それは「ヨコスカ」だというのです。
漢字でもアルファベットでもない「ヨコスカ」とは、一体どこに存在するのか。それは、「父」ではないもの。すなわち「女」の領域に在るのだ
同
「女流写真家」のような、「女」を強調した扱いに対して、石内都本人はしばしば違和感を示しています(参考)。一方、土屋の指摘はこうです。戦前・戦中・戦後を通して、横須賀もしくはYOKOSUKAという都市は女性を抑圧してきた。父権の見てきた横須賀・YOKOSUKAではない視点として、搾取された側の目線を求めます。そこで「ヨコスカ」という別の切り口を提示するわけです。
さて、活動を開始したばかりの石内都が負の感情を向けていたのは、実は横須賀という街そのものにほかなりません。「絶唱、横須賀ストーリー」ではその感情が「奥深く取り付いていた残酷なる思い(同, p.76)」と表現されていました。
しかし石内が横須賀の写真を撮りに戻ってきた1970年代後半には、安保運動で暴動が起き、ベトナム戦争で繁華街が賑わった当時の「YOKOSUKA」はありませんでした。
このころすでにオイルショックを一度経験していた日本。高度経済成長期の終わりにさしかかってもいます。円・ドル固定相場が完全に崩され、ベースの職員たちが基地の外に出なくなるプラザ合意までもあと10年を切っていました。このこと、つまり行政地名としての横須賀の中でアメリカの存在感が薄れていく過程を、土屋は「YOKOSUKAが終わった」と表現します。
終わったYOKOSUKAはどこへ行く
それでは「横須賀を敗ったYOKOSUKA」が終わってしまった神奈川県横須賀市は、いったいどこに行くのでしょうか。横須賀へと戻っていくのでしょうか。ヨコスカになるのでしょうか。
この疑問の答えになるかどうかはわかりませんが、横須賀の街に話を聞いてみたいと思いました。横須賀は、自分のことをどう言い表しているのか。どうやって人にその姿を見せているのか。
とはいえ街は当然のことながら喋りません。そのかわり道行く人に文字や音や光で語りかけてきます。そのうちの文字、つまり店舗のファサードや看板などの屋外広告に焦点を当てて歩いてみました。
今回歩いたルート

横須賀の街が自分のことを何だと表現しているのか、それを知るために選んだのは横須賀中央の千日通り商店街です。エリアとしては駅前に伸びる三崎街道と国道16号線にサンドイッチされた場所。さいか屋横須賀店などがあるあたりです。2021年3月終わりに歩きました。
歩く前からこのような予測をしていました。横須賀の街が自分のことをどう言い表すかは、エリアによっても違うんだろうな、と。たとえばどぶ板通りで探したら圧倒的に「YOKOSUKA」が多くなりそうな気がします。一方で裁判所や警察署があるあたりを歩いたら「横須賀」が増えるんじゃないでしょうか。
千日通りは市役所が近い中心市街地でありつつ、最近は住宅も増えていてネイビー向けのお店もちらほら。ちょうどいろいろな要素が混ざっています。バランスが良いかなと思って歩いてみました。
歩き方は単純、歩車が分かれた広めの通りをうねうね歩きつつ、右手にある路地に全部入っていく、というビラ配りバイト方式です。写真を撮りながら歩きました(振り返ってみるとよく職質されなかったと感心します)。千日通りはそんなに広い範囲ではありませんが、きょろきょろ写真を撮って歩くと1時間半くらいかかりました。
千日通りの「横須賀」「YOKOSUKA」「ヨコスカ」、そして
予想外に現れた「よこすか」
歩きはじめてすぐに気づいたことがありました。「横須賀」でも「YOKOSUKA」でも「ヨコスカ」でもない、「よこすか」のサインです。

お堅いはずの(土屋の分類であれば「父権」にあたるはずの)行政関連施設および公益性の高い事業所に使われる「よこすか」の表記。これが意外と多いんです。




とっつきにくい印象のあるもの、あまり身近でないように感じられるものに「よこすか」が冠される傾向があるのでしょうか。しかしひらがなにしたからと言って、そんなすぐに親しみが湧くものなのでしょうか。

千日通りを歩くという縛りがあったため、道路を渡れずにすごく小さくなってしまった「よこすか海岸通り」のサイン。仮に「横須賀海岸通り」だったら、印象はどのように変わっていたんでしょうか。

親しみやすい「よこすか」の権化ともいえるよこすか海軍カレーのお店……といえばYYポート内にある「横須賀海軍カレー本舗」。カレーは「よこすか」なのに、お店の名前は「横須賀」。
でも1階にあるお土産屋さんには「よこすか土産」「よこすか銘菓」の文字がありました。ちょっとどう考えればいいのか分かりませんが「よこすか」に入れておきましょう。
正式名称「横須賀」

一方、土屋が父権と呼んだ「横須賀」のサイン。オフィシャルさ、まじめさを強調する必要がある施設に使われています。





証券会社が「よこすか支店」だとちょっと不安になる印象がありますが、薬局であれば「よこすか薬局」でも十分ありえそうです。この違いはなんだろう。

「横須賀が好き!」の市制100周年ロゴステッカーは市役所前公園下の駐車場入り口にありました。おとなりはペリリンとオグリン。ステッカーをよく見ると、「YOKOSUKA CITY SINCE 1907」のコピーも。

こちらは別の入り口に、よこすか海軍カレーのイメージキャラクター「スカレー」ちゃんと一緒に。スカレーちゃんは【よこ「スカ」レー】とも【YOKO「SUCUR」RY】ともとれそうな気がします。

宗教施設はまじめ。個人的には「よこすか教会」みたいな教会があったら、ちょっと落ち着かない気持ちになりそうです。お寺でも神社でも。

マンション名はカタカナやアルファベット表記が多いので、漢字で横須賀と掲げられるとちょっとかっこよさすら覚えてしまうかも。

バウスは横須賀ではなく駅の名前を採用しているため「横須賀中央」。これは「よこすか中央」にはなかなかならなそうです。

なくなってもうだいぶ経つ(10年は経っていますよね……?)豊魚のキャッチコピー。

食べ物つながりだと、うどん工房さぬきの看板に「横須賀」が。

鳩サブレーの豊島屋がさいか屋に掲出している広告。(バラと自衛艦のリアルなタッチのなかに遊ぶ擬人化された鳩と蜂。日常から異世界が顔を出してる感じがしてちょっとびっくりしました)

ビルの名前。これは奥に「Excellent Yokosuka」の表記も見えます。タトゥーの看板とネイビー向けのWi-Fi屋さんの間に挟まれる「横須賀」、情報量が多い上にいかにも基地の街らしい並び方で笑ってしまった写真でした。
あまり見つからなかった「ヨコスカ」

土屋誠一による石内都論のポイントになっていた「ヨコスカ」。結果的にはあまり千日通りには見当たりませんでした。

空きテナントのファサード。横須賀って花松という名前のお花屋さんが多いですよね。

対岸の米が浜通側なのですが、視界には入ってくるのでヨコスカベーカリーも。
千日通りにある「ヨコスカ」サインはこれだけでした。改めて考えてみると、日本語の固有名詞をわざわざカタカナ表記にするのは少し特殊というか、対象を異化する作用があるように思います。

ヨコビル
厳密には「ヨコスカ」ではなく「ヨコ」なのですがヨコビル。最近出版された『写真が語る 横須賀・三浦の100年』を読んでいたら、今はなきマルイが横須賀進出時に出店したのがヨコビルだったんだそうです。遊興施設のイメージしかなかったヨコビルですが、言われてみると往年のファッションビルらしき風格もある気がしてきました。
多かった「YOKOSUKA」

ぴぽに車を停めて地上に上がってきたら、最初に見えたものがこれでした。シティプロモーション! って感じです。横須賀市はこういうふうにこの街を見てもらいたいんだなということが強く伝わります。
Yokosukaにジャズ。現代の横須賀にジャズのイメージがある人はそう多くないと思うのですが、横須賀市はジャズのまちとしてPRする試みを長いことつづけています。これには戦後すぐ、進駐軍の時代からの経緯があるから。しかし現代となっては当時と同じ文化を継承しつづけているわけではありません。
イメージ戦略として難しいながら、それなりに愛着とこだわりを持ってジャズを掲げる人たちは一定数いるようです。横須賀の音楽史にまつわる話、最近ずっと調べているのでそのうち記事にしたいです。
さて、それはそうと歩きましょう。

復活したさいか屋のテントはよく見るとアルファベットでした。これは以前からですね。

リニューアルを告げるポスター。ボディコピーは【食べる・遊ぶ・楽しむ「横須賀ぐらし」】。

ザ・タワーもバウスと同様「横須賀中央」を冠していますが、こちらのサインはアルファベット。

マンション以外でアルファベットのビル名称は意外と珍しく、ここしか見当たりませんでした。

「よこすか 猿麺」が正式な店舗名ですが、ファサードはアルファベット。

店舗名プラスYOKOSUKAの表記。

買い取り専門店の店名。

現在はヨコスカベーカリー姉妹店のPicksになっているテナントに、恐らく昔のものとみられるネオンサインが残っていました。脇には2階店舗の看板も。この店頭も情報量が多いですね……。
「よこすか」が征服しつつある「YOKOSUKA」
歩いていて気になることは、やはり「よこすか」。「横須賀」「YOKOSUKA」「ヨコスカ」に比べると比較的新顔と思われるこの表記が、少しずつほかのものに対して優位を示し始めているように思われました。

三笠公園の入り口にある屋外広告だらけのビル。ここもまた情報量が多いですが、「YOKOSUKA」が見受けられるのはYOKOSUKA SHELLひとつのみです。しかしその上には「よこすか海軍カレー」の文字が。たしかに海軍カレーとネイビーバーガーという行政主導のメニューが売りのお店、増えました。

これは老舗カレー屋さんベンガル。もはや店名よりも「カレーの街よこすか」のほうが目立っている看板です。ベンガルは「海軍カレーを出さない」ことをモットーとしているカレー屋さんですが、「カレーの街よこすか」のキャッチコピーはしっかりと定着しているようです。

正面から見ると「カリーすなっく ベンガル」の店名がはっきりと見えてちょっと安心しました。
行政が親しみやすさを込めて(?)「よこすか」表記を随所に推し進めていくなかで、もしかしたら「YOKOSUKA」表記は次第に「よこすか」表記に飲み込まれていくのかもしれない、と、そんな予感がよぎりました。
軍港都市「横須賀」、アメリカの街「YOKOSUKA」の次にあるものは「ヨコスカ」ではなく「よこすか」なのだとするとどうなんでしょう。そこにはどんなメッセージが込められていて、どんな受け入れられ方をしていく(or していかない)のでしょうか。
変わっていく街を眺める

人間に世代交代があるように、街もじわじわと時代を経て変わっていきます。建物などの構造物や屋外広告は、時代の中で積み重なった地層のようなものだと感じることがあります。
今回は「横須賀」をどう表記するかがきっかけで街の変遷のごく一部を垣間見ることになりました。別の視点を持てばまた違う堆積層が見えてきそうです。これからも歩いてみたいと思います。