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【三崎口】三崎東岡バス停から北原白秋「畑の祭」を歩く

みさきひがしおか、というバス停があります。地図で見るとまさに三崎の町の東にある丘。京急「三崎口」駅とマグロで有名な三崎港のちょうどあいだにある、何ともないバス停、という印象。

でも三崎東岡、実は要注意スポットなのです。理由はここが終点になるバスがたくさん運行されているから。「三崎口」駅からバスに乗って三崎港に行こう! と思っていたのに、目と鼻の先(実に三崎港バス停は三崎東岡のお隣です)で下車させられてしまう、とか。

JR横須賀線で三浦半島にやってきて、「衣笠」駅の近くのバス停から何となく乗車した「三崎に行くバス」が実は三崎東岡止まりだったり、とか。そんな悲しい乗り間違い、実は地元民でもしてしまったりします。

さて、本記事はそんなこんなで、予定外に三崎東岡に放り出されてしまったあなたにお送りする寄り道散歩道です。画像は2019年11月に歩いたときのものを使用しています。現在と風景が変わっているところもあるかもしれません。

あ、でも、お昼ご飯に三崎でまぐろを食べるつもりがある方は、寄り道の前に頑張って三崎港へ! 三崎東岡からは歩いて500メートルくらいなのでなんとかなります。ランチタイムを過ぎたらお腹が空いて悲しくなってしまいますから。

今回のお散歩ルート

三崎東岡バス停(A)から始まって(C)の浜諸磯まで歩くルート(約30分)が基本です。加えて三崎街道へと戻り、バスに乗って「三崎口」駅に戻れるルート(D〜F)と、そのまま歩いて三崎港へと向かうルート(ふたつ目のA〜C)を用意しました。

今回のお散歩ルートは下記URLのGoogleマイマップにて公開しています。お役立てください!

三崎_北原白秋「畑の祭」を歩く - Google My Maps
三崎_北原白秋「畑の祭」を歩く

三崎東岡から「畑の祭」を歩く

大正二年九月某日、相州三崎は諸磯神明宮祭礼当日の事、上層に人形、下段にお囃子の一座を乗せた一台の山車は漁師と百姓とを兼ねた素朴な村人の手に曳かれてゆく。

北原白秋「畑の祭」(青空文庫)

こんな前口上で始まる北原白秋の詩があります。「畑の祭」と題されたこの作品、現在は著作権保護期間が終了して青空文庫に収録されています(以下引用はすべて青空文庫版によります)。

図書カード:畑の祭 | 青空文庫

さて、引用一行目からお分かりの通り、この詩の舞台は「相州三崎は諸磯」。相州、とは相模国のことで、つまりは現在の神奈川県三浦市三崎諸磯町のことなのです。

三崎東岡でバスに置き去りにされてしまったわたしたちは、白秋先生の案内にしたがって大正2年(1913年)のお祭りについて行ってみましょう。文中のスポット名はマップと対応しています。

B → C ローソンのある交差点を左に曲がる

先づその山車は鎌倉街道から横にそれて、一小岬の突鼻の神明宮まで、黍畑や粟畑の高い丘道をうねつてゆく。

北原白秋「畑の祭」(青空文庫)

「鎌倉街道」と呼ばれているのは現在の三崎街道、「三崎口」駅から三崎港を結ぶバス通りのことです。三崎東岡から歩くと右手にローソンが見える交差点で左に曲がりましょう。自動車がすれ違えるくらいの生活道路が続きます。周囲は民家にちらほら畑が混じる感じ。今では「黍畑や粟畑」の面影はありません。

諸磯遺跡の碑
諸磯遺跡の碑

交差点を曲がってから500メートルほどてくてく歩くと、「諸磯遺跡」という碑が建っています。現在では何も残っていませんが、縄文時代の住居跡が見つかった遺跡で「諸磯貝塚」とも呼ばれます。

白秋文学コース案内板
白秋文学コース案内板

そこからさらにちょこっと歩くと、「白須」というバス停脇にぽつんと破れかかった看板が立っています。そのうち読めなくなりそう。北原白秋ゆかりのスポットに三浦市が設置した案内板で、こちらにも「畑の祭」についての言及があります。この案内板のお陰で今歩いているルートが作品に出てくる「高い丘道」であることが確認できました。

「とりあえず自分が読めればいいや」と適当に撮った画像を補正したので歪んでいるのはご容赦ください。

径は緩い傾斜を登つたり下りたりしてゆく。崖の高みを行くのでその両方に真碧な海が見える。

北原白秋「畑の祭」(青空文庫)

白秋の時代は、この道を歩きながら海を左右に楽しむことができたようです。現代では建物が多いせいでしょう、残念ながらなかなか海が見えてきません。先ほどの案内板からさらに500メートルほど歩くと、ようやく目の前が開けてきます。

切り通しの上を陸橋が走る

山を切り通して作った道路が眼下に見える陸橋です。画像中央部の先にはちらちらとヨットのマストが見えます。そちらが諸磯湾。気になりますが、あとでご紹介しますね。まずは陸橋の上を白秋の山車にくっついて進みましょう。

径が山車の幅より狭い位なので、松や蜜柑にぶつかつたり何かする。而して畑の上でも何でも溝はず曳いてゆく。

北原白秋「畑の祭」(青空文庫)

すごいおおらかというか、雑な運行です……。

山車が進んでゆくと、そこから神明宮と相対した油壺の入江が見え、向ふの丘の上に破れかかつた和蘭風の風車が見えてくる。その下に大学の臨海実験所の白い雅致のある洋館がある。

北原白秋「畑の祭」(青空文庫)
諸磯漁港より新井城址を望む

現代では丘の上から湾を望むのが難しいので、少し先回りして海岸線から「向ふの丘」を見てみましょう。海に突き出た堤防の左手に消波ブロックが見えますね。その向こう岸辺りがちょうど東大の臨海実験所です。当時は風車があったそうです。

ちなみに白秋は油壺と言っていますが、臨海実験所があるのは厳密には諸磯湾です。油壺湾は新井城址のそのまた向こう側で、ここからは見えません。

愈丘の畑をすべり下りると平たい、かつと明るい渚に出る。右も左も渚である。

北原白秋「畑の祭」(青空文庫)
浜諸磯にある「道路改良碑」

さて、少し進むと道はぐぐぐっと急な下り坂になり、ぱっと目の前に海が開けます。撮影したカメラの設定を間違えていたせいで30年前のインスタントカメラで撮ったみたいな画像になっていて大変残念なのですが、こちらはその開けた海です。現在は諸磯漁港の一部として利用されています。進み出ると、確かに「右も左も海」。

写真中央には「道路改良碑」が建っています。道路改良がなされる前は悪路だったのでしょう。いろんなものをなぎ倒しながら山車が進むなあ、と白秋が思った「高い丘道」は、きっと道路改良前だったんでしょうね。

ここに神明宮の鳥居がある。そこから円い穏かな丘の登り道になつて、その向ふが愈海になつてゐる。

北原白秋「畑の祭」(青空文庫)
神明社の鳥居

諸磯漁港の脇に大きな鳥居があります。ここが神明社。この写真もカメラの設定が間違っていました。ほんと酷い画像で申し訳ないです。

神明社は今ではしんと静かな佇まいで、白秋が説明するような賑やかさはありません。神明社の奥が小高い山になっています。

山車が神明社に着くと、ようやく前口上が終わって詩が始まります。

丘や畑は万作じや、おや、おらちの陸穂おかぼもやつとれた。
やれ、南瓜かぼちやも飛び出せ、牛蒡も踊り出せ、
枝豆、隠元いんげん、ささぎ豆、
なた豆、落花生に胡麻の種、
さやがはぢけた、赤ちやけた、
化猫ばけねこ雉猫きじねこ、かまいたち、粟が尻尾しつぽを黄に垂れた。

北原白秋「畑の祭」(青空文庫)

人間以外の生き物がたくさん描写される、田舎らしい、カラフルで賑やかな秋。なお、作品中には差別語・不快語が含まれますので、お読みになるときはご留意ください。

マイマップに表示できない道を進んで灯台に

さて、白秋のお祭りはいったんそこで楽しく開催していただくとして、わたしたちはもう少し道を進んでみましょう。神明社の脇には自動車が一台なら通れるくらいの細い道路があります。

きつね浜へ

不法な工作物に対する神奈川県の警告が掲示されています

ちらちらと海が見える中を進みます。

突き当たりかと思いきや、細い道が。

道をずんずん進んでいくと突き当たりに出ます。「私有地」の掲示があるコンクリートの基礎で囲われた敷地の脇に、細い細い踏み分け道が。

笹藪の中を通り抜けていきます

山車が通った「丘道」も、こんな感じだったのかもしれませんね。ずん、ずん、ずんと進んでいくと……

きつね浜です

諸磯埼灯台があるきつね浜に出ました。

貝殻の多い浜です

足元は砂よりも貝殻で埋め尽くされています。じっくりビーチコーミングをしたら楽しいと思います。

諸磯埼灯台

このちょっと珍しい形状の諸磯埼灯台が好きなんです。意外と波は荒いので安全なポジションでぼんやりと眺めます。

神明社の奥にある「円い穏かな丘」を振り返ります

背後には神明社の奥にある小山が。地形と生い茂る藪で周囲から隔絶されたような印象のある浜ですが、別荘らしき建物がいくつか建っているのが21世紀って感じです。

三浦一族と狐

古代〜中世の日本ではそう珍しいことではないのかもしれませんが、三浦半島一帯を支配していた三浦一族には狐にまつわる伝承がいくつも残っています。きつね浜もそのひとつ。

相模三浦一族の最後の領主、三浦荒次郎義意がある日狐を狩りでしとめた。狐は矢に射貫かれて浜に落ちた。その浜をきつね浜と呼ぶようになった……。というお話です。

連載 第32回「狐塚のこと」 三浦の咄(はなし)いろいろ みうら観光ボランティアガイド 田中健介 | 三浦 | タウンニュース
『三浦の伝説と民話』(三浦市観光協会発行)の中に、「きつね浜ときつね塚」の話が載っています。それによりますと「浜諸磯の丘の麓の狭い砂浜を、通称きつね浜という。」の書...

狐を射止める三浦の頭領というモチーフは、実はこれ以外にも見られます。平安末期にまでさかのぼる、三浦大介義明の妖怪封じです。このとき射止められたのは玉藻前という妖怪ぎつね。「封神演義」にも出てくる妲己と同じ妖怪だと伝えられます。なんとも不思議な、三浦と狐の関係。

狐にまつわる場所
「狐にまつわる場所」の記事一覧です。

帰り道その①

「高い丘道」「丘の畑をすべり下りる」をもう少し体験しつつちょっと珍しいものを見ながら三崎街道へと戻りましょう。「三崎口」駅に寄り近いバス停「天神町」へ向かいます。

C → D 諸磯湾へ

立体交差のところまで戻ってきました

行きがけに通った立体交差まで戻ってきました。ここで下の道に降りて、写真に写っている諸磯湾のほうへ向かいます。

諸磯湾はヨットの保管場所になっています

ヨットだらけの諸磯湾。続いてはこの湾に面した道を曲がり、坂を登っていきます。

D → E 諸磯の隆起海岸

坂が多いこの辺りの地形は、海岸隆起によって作られています。「畑の祭」が書かれた大正時代といえば関東大震災(1923年、大正12年)が思い浮かびます。この震災時にもこの辺りは思いっきり隆起し、以前とは海岸線が大きく変わってしまったのだそうです。

そんな海岸隆起が、坂を延々と登った小山の上にも残っています。それが諸磯の隆起海岸です。地図のEまで進んだら、細い道をそのままちょっと歩いてみましょう。すると……

ごみステーション脇に看板が立っています

ごみステーションの脇に「諸磯隆起海岸」という看板が。こちらの農道を進みます。

ちなみに、この看板は岡村さんという方が寄贈したと書かれています。親切な方だなあと思ったら、この真後ろに「岡村興業」という立派な建物がありました。もしかしたら「隆起海岸ってどこですか?」っていろんな人に聞かれたのかもしれませんね……。

崖が一部露わになっています

農道の先に看板が立っていて、その奥に崖が一部露わになっています。ここが隆起海岸。どういうことかというと、水際の岩に穴を開けて住む貝の巣穴あとがこの崖に確認できるのです。つまり何万年前かはこの岩が波打ち際にあったということ。長い年月をかけて、山のてっぺんになってしまったのでした。

教育委員会が設置した説明板

すでにぼろぼろになりつつある説明板がありました。

E → F 三崎街道へ

地図のルートを辿っていくと「諸磯遺跡」の碑がある交差点に出ます。あとは行き道を逆に進んで三崎街道へ。Fは「三崎口」駅に寄り近いバス停「天神町」です。

隆起海岸の崖上は白秋が歩いたみたいな畑の道です

ちなみに、三崎街道からこの諸磯隆起海岸へ行こうとするときは注意点がひとつあります。Googleマップでルート案内をすると、岡村興業さんの前の道ではなく、崖の上へ案内されてしまいます。それがこの写真。左手の崖下が隆起海岸なのですが、ここからは道がなくて行くことができません。この写真はうっかりわたしが騙されたときのものです……。

でも、おかげで白秋が「畑の祭」を見物したみたいな「高い丘道」を歩くことができました。

帰り道その②

立体交差を下に降り、諸磯湾と反対方面へ

もうひとつの帰り道は、三崎港へと向かうルート。こちらは写真がありません。先ほどの立体交差を降りて、諸磯湾と反対方向へ。切り通しの道をまっすぐ進むと、そのうち三崎港へと辿り着きます。美味しいものを食べて帰ってくださいね!

「三崎東岡」バス停からきつね浜までが30分、きつね浜から諸磯隆起海岸までも30分、同じくきつね浜から三崎港までもだいたい30分。プラス1時間で巡れる、目的地プラスアルファのお散歩をご紹介しました。バスを乗り間違えても、ちょっとラッキーに思える道です。

赤星友香
赤星友香

横須賀ぷらから通信主宰。クロシェター / ライター。普段はpiggiesagogoという屋号で編み図を作ったり、別館1617という自主レーベルで本を作ったりしています。横須賀育ちの北関東在住で、わりとつねに三浦半島に行く口実を探しています。

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