三浦一族は相模国を代表する武士団で、武士については少ないながらも史料や伝承が残っています。しかし武士団を支えた人々のことは全くと言って良いほどわかっていません。
その中でも私が特に注目しているのが、三浦一族が抱えていた鍛冶集団のことです。
本郷郷土史研究会による『鎌倉古鍛冶と本郷』によれば、「葉山の森戸川周辺の地名は三浦義明のお抱え鍛冶集団、奥州四郎森戸に由来する」とあります。
森戸鍛冶の考察
森戸海岸は砂鉄がとれるので、当時製鉄が行われていてもおかしくはないでしょう。そして近くに川があるというのも、鍛冶場の条件です。

こうして見ると、地形的には鍛冶集団を形成するのに適している土地と言えます。
三浦のお抱えの鍛冶集団といえば、逗子の沼間(ぬまま)にいた「沼間鍛冶」のことを以前も記事にしました。
先ほどの『鎌倉古鍛冶と本郷』によると、沼間鍛冶の作業所は数カ所あり、その一つに当たるのが逗子の桜山だそうです。森戸川はその桜山から流れている川です。
ちなみに桜山には縄文時代・弥生時代・古墳時代の遺跡があり、ハイキングコースにもなっています。
森戸という地名の起りは、舞草鍛冶安房の子に「奥州四郎森戸」の名があり、時代は保元頃と伝えている。
本郷郷土史研究会『鎌倉古鍛冶と本郷』p47
舞草(もくさ)鍛冶というのは、日本最古の鍛冶集団のひとつです。現在の岩手県一関市にいた鍛冶集団で、関東の鍛冶集団のほとんどはこの舞草鍛冶が移住してできました。日本刀の発展は、この舞草刀なしでは語られません。
「安房(あわ)」というのは舞草鍛冶全盛期の刀工の名です。その子「奥州四郎森戸」が奥州(東北地方)から葉山へやってきたのは、『鎌倉古鍛冶と本郷』によれば保元の頃。つまり1156年~1159年あたりです。
そういえば、久寿2(1155)年に「大蔵(おおくら)合戦」という戦があり、三浦一族は源義平(みなもとの よしひら=頼朝の長兄)の元、武蔵国の秩父に攻めています。秩父はまさに舞草鍛冶が関東に移住した中心地なので、もしかしたら大蔵合戦の戦利品として、三浦に連れて帰ったのかもしれませんね。
三浦義明の息子に「森戸(杜戸)六郎重行」という人物がいます。どんな人物だったのかは資料が残っていません。もし森戸に三浦義明お抱えの鍛冶集団がいたのが真実だとしたら、移住してきた「奥州四郎森戸」の妹か娘が三浦義明に嫁いで、森戸重行が産まれたのかもしれません。
今回のお散歩コース
というわけで、森戸鍛冶の遺構を探しに、森戸川を下ってみます。
まず逗子駅からバスに乗り、「風早橋(かざはやばし)」で下車。川沿いを通って森戸神社へ向かいます。


マンション沿いの脇道に入った先にある、一見民家の門に見えるのは……。

ここが森戸重行の屋敷跡、「長徳寺(ちょうとくじ)」です。
長徳寺
長徳寺は、森戸重行の屋敷跡に北条高塒が開基し、南山士雲(なんざん しうん)という臨済宗の僧が建立したと言われています。そのため、寺紋は三浦の家紋ではなく、北条氏の家紋である三つ鱗です。
長徳寺のご本尊である毘沙門天は、元々三浦市の慈雲寺(じうんじ)にあったもので、盗人によって持ち去られ、この近辺にあったものを長徳寺へ移したとされています。
長徳寺の先には森戸川にかかる亀井戸橋(かめいどばし)があります。

橋を渡って左に曲がり、元町会館を左に曲がると……

葉山名物「葉山コロッケ」を販売している「旭屋牛肉店」です!

ジューシーな肉汁がしみ込んだコロッケが1個100円で味わえます。
大通りに再び戻り、南下していき、今度は「森戸橋」を渡ります。

橋を渡れば、ゴールである森戸神社はもうすぐです。
森戸神社
森戸神社については、過去の記事も参照ください。



残念ながらこの日は雲が多く、富士山は見えませんでしたが……

見事な夕焼け!!

相変わらず、暗くなるまで見ていたくなる風景でした。
三浦一族と鍛冶集団
森戸鍛冶について現地を歩いてみましたが、残念ながらなんの遺構もありませんでした。けれどまぁ、葉山コロッケは美味しいし、森戸の夕日は美しい。
三浦と鍛冶については、まだまだ調査中ですので、何かわかればまた記事にしたいですね。それと……森戸からの富士山をリベンジしたい!