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【京急久里浜】三浦水軍の要!怒田城址~佐原の里

久里浜を流れる平作川は平安・鎌倉時代は湾になっていて、軍船がずらりと並んでいました。その両岸にあったのが怒田(ぬた)城と佐原(さはら)城です。

今回のお散歩コース

久里浜_怒田城と佐原城 - Google My Maps

まず京急久里浜駅から怒田城に向かいます。しかしバスに乗るには近く、歩くには遠くというぐらいの、微妙な距離感なんですよね……。

というわけで今回は、近年三浦半島にも進出してきたシェアサイクル「ダイチャリ」を利用しましました!! 京急久里浜駅周辺には「久里浜駐車場」と「横須賀市南体育館」にポートがあります。

そして平作川沿いを北側に進んで行きます。

高架下を通って橋を渡り……
ダイハツとピンクの建物(サイゼリヤ)の間を右に……。
鉄橋の下をくぐって
左に曲がる……。

そして道なりに行くと、山道に入る階段があります。

そこまでキツイ山道ではないので、スニーカーでも大丈夫!

階段を登った先にあるのが、怒田城址です!

頂上の広場は見晴らしがよくて気持ちいいけど、ベンチはありません

怒田城跡について

実は、この場所は昔から怒田城があったとされてきましたが、ハッキリと「ここがそうだ」と証拠があるわけではありません。ここの正式名称は「吉井(よしい)貝塚を中心とした遺跡」です。

ここには縄文時代に作られた2つの貝塚と、縄文時代から古墳時代にかけての集落跡があります。しかし平成4(1992)年の発掘調査で、貝塚の一部は後の時代の空堀と土橋によって壊されていたことがわかりました。この空堀と土橋が作られた時代はハッキリしませんが、城跡であることは間違いないようです。

貝塚の上にある空堀跡

平作川を挟んだ対岸にも、吉井貝塚と同時期の「茅山貝塚」があります。そのさらに奥には三浦一族の佐原義連の居城、佐原城があります。

縄文時代から続く集落が続いて鎌倉時代も人が住み、現在の住宅地になっていると考えると、長い歴史のロマンを感じますね!

吉井台地から見た、茅山貝塚方面

三浦一族と怒田城

三浦一族の城と言えば「衣笠城」ですが、衣笠城は住居用の城ではなく、一族のシンボルとしての城、日々の鍛錬の場でした。

対して怒田城は、当時は湾だった平作川のすぐそばにある水軍基地です。

治承4(1180)年、ひょんなすれ違いから秩父党と合戦になってしまった三浦党。三浦半島に秩父党が攻めて来ると知って、和田義盛が提案したのは「怒田城で迎え撃つ」というものでした。

しかし一族の長である三浦義明はその提案を却下して、一族の誇りである衣笠城に籠城し、一族郎党を逃がす決断をします。

そして衣笠城から脱出した三浦一族は怒田城から船に乗り、安房を目指すのでした。

怒田城址からは吉井の御林も近くです。

佐原城跡

というわけで、次は怒田城の対岸にあり、共に港湾警備の要だった佐原城に向かいます。

けれど現在の佐原城址は畑になっています。その入り口も関係者以外立ち入り禁止となっていますので、その周辺までの案内とさせていただきます。

怒田城址を後にして、大通りを出た後、北に向かいます。

一回駅の近くまで戻って、対岸を行くルートもおすすめです
高架下の橋を渡ります。

橋を渡って突き当りを左に。すぐ右に曲がって真っ直ぐ。

大通りに出たら、横断歩道を渡って右へ。

ちょっとナナメになってしまいました……。

そして道なりに真っすぐ行きます。ちなみに途中にある「横須賀リーフスタジアム」にダイチャリのポートがあるので、ここから歩いていくのも可です。

野球場と日産の看板が見えるこの十字路を左に。

ここからはちょっとぼやかします。この先にマンションがあり、その奥に山道への入り口があります。

編集部注: 佐原城址へ最短距離で行けるこちらのルートは2022年4月現在途中で通行止めになっています。そのため、少し迂回して山道を上るルートをご紹介します。迂回ルートは2022年2月に通行可能なことを確認していますが、その後なんらかの理由で通れなくなっている可能性も考えられます。ご了承ください。

佐原城址への迂回ルート

野球場と日産の看板がある交差点を左折したあと、まっすぐ「くるまやラーメン佐原店」があるところまで進みます。ここは大通りに2本の道がぶつかる三叉路になっています。もう1本の合流する道へと曲がり、横須賀横浜道路ぞいの道を進みます。このあと4回ほど右折しますので、道の詳細は地図をご確認ください。

4回目の右折で山道に入ります。少し急な坂を上ると……

高台に畑が広がるエリアです(撮影:Takeching

畑のすみに「佐原城址」の石碑と看板が。

今は石碑と案内板だけが残されています(撮影:Takeching

当時はこの山一帯が城となっていたのでしょうが、現在の姿からはなかなか想像がつきませんね。

町内会による小ぶりな案内板がついています(撮影:Takeching

(編集部による追記終わり)

満願寺

ここまで来たらもう一つ。佐原義連の墓がある満願寺(まんがんじ)へ向かいましょう!

満願寺へは佐原ICのある道路をしばらく南下していきます。そして「満願寺入口交差点」に坂を下る細い道があるので、そこへ入って行きます。

道なりにまっすぐ行くと、満願寺があります。

満願寺の入口

満願寺と佐原義連

佐原義連は三浦義明の末子で、三浦義澄の弟です。しかしその生涯は伝承と謎に包まれています。

現に満願寺の縁起の時点で源平合戦に参加した時(1180年)に19歳だったと書かれているのに、建久2(1191)年で75歳で亡くなったとあり、計算が合いません。そもそも『吾妻鏡』では建久3(1192)年の記述に登場しています。

義連は頼朝の寝所を守る11人の若武者に選ばれてるので、頼朝時代の若い人だったとは思います。

佐原義連の活躍と言えば、なんといっても「鵯越の逆落とし」!! 「このような道は三浦の馬場同然よ!」といって崖を駆け下りた勇士です。

近年の研究では実際には鵯越の逆落としは行われなかったのではという説も出てきています。でも、三浦の山も鵯越も実際に行ってみた私個人の感想としては「あったかなかったかだったら、なかったかもしれないけど、できるかできないかだったら、できると断言したい……」と思っています。……実際、三浦によくある山道だったんですもの……。

満願寺の境内

境内にはARによる歴史解説の看板が立ち並び、佐原義連や三浦一族を知ることができ、階段の先には佐原義連の墓と伝わる五輪の塔があります。

また、寺に伝わる観音菩薩像は、佐原義連が自分に似せて運慶に作らせたものとされています。実際に鎌倉初期に作られたもので、運慶本人かはわからないけれど作風から運慶一派の誰かには違いないと研究者も認めています。

お帰りは自転車もしくはバスで

長丁場、お疲れさまでした。帰りはそのままレンタサイクルで北久里浜駅近くの「根岸交通公園」のポートまで行ってもいいですし、「HELLO CYCLING 佐原2丁目公園」で自転車を返却して「佐原橋」か「風早」バス停から北久里浜駅方面へ帰る方法もあります。バス停の場所は地図でご確認ください。

<meta charset="utf-8">樽瀬川 真人
樽瀬川 真人

三浦半島の付け根で生まれ育ち、地元の歴史を調べていたらいつのまにか鎌倉時代の三浦の海の底にいた。 

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