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衣笠城址と古代・中世の信仰【スポット紹介】

江戸時代の衣笠城址。出典:新編相模国風土記稿

「新編相模国風土記稿」は現在の衣笠城址のあるあたりを「本丸」、大善寺のあるあたりを「二の丸」と呼んでいます。衣笠城があった当時にそのような呼び方をしていたわけではないと思いますが、そう呼びたくなってしまう気持ちはなんとなくわかります。山のあちこちに平場があって、その間を急な山道が結んでいる地形になっているからです。

今回は衣笠城址を大きく3つのエリアに分けてご紹介していきます。三浦一族にまつわるお話についてはこちらの記事もどうぞ!

ひとつ目のエリア

二手に分かれている階段、まずは右手に進みます

衣笠城址の案内看板がある道を上っていくと、階段が二手に分かれています。まずは直進。進んだ先は樹冠に覆われていて昼間も暗く感じます。開けた場所のてっぺんには「御霊神社」があります。

御霊神社

御靈 建久五年九月廿七日勸請す、 三浦大助義明の靈を祀ると云、〇伊勢宮 ○秋葉社 ○第六天社 ○住吉社 已上共に村持、

新編相模国風土記稿

建久5年(1194年)は源頼朝が三浦義明の菩提を弔うためにお寺の造営に着手したのと同じ年です(「吾妻鏡」建久五年九月二十九日条)。ほんの2日だけ御霊神社の勧請が早いのはなぜなんでしょうね。

石宮

石段がぽつぽつとあり、木の根元にいくつかの石宮が置かれています

順番が前後しましたが、御霊神社がある場所に出る手前のところにいくつかの石宮がまとめて置かれています。これらのうちのいくつかは「新編相模国風土記稿」にある「〇伊勢宮 ○秋葉社 ○第六天社 ○住吉社」のものかもしれません。

ふたつ目のエリア

春になると桜や梅が楽しめる傾斜地

ひとつ目のエリアから道がつながっている、ややゆるやかな傾斜地です。現在は桜などが植えられており、ちょっとした花の名所になっています。

こちらにはふたつの社があったと伝わっています。

矢取不動

○不動堂 衣笠城蹟に在、像は行基作 長三尺 、箭執不動と號す 縁起に據に、三浦長門守爲通、衣笠に居住し、信崇して城内の鎮護とす、源義家奥州の役に爲通の子太郎爲紙從軍し血戦せし時、此像形を現じ、敵の放つ箭を執て力を戮す、囚て箭執不動又箭除明王とも稱す

新編相模国風土記稿

三浦義明の祖父にあたる三浦為継が後三年の役に出陣したとき、ここにある不動尊が為継を敵の矢から守ったという言い伝えがあります。そのために矢取不動(「新編相模国風土記稿」は「箭執」と書いて「やとり」と読ませています)というふたつ名もついています。

不動堂は今ではなくなりましたが、不動像はふもとの大善寺が保管しています。

金峯山蔵王権現

薄れてしまっていますが「蔵王権現」が読めます

○金峯蔵王權現社 祭神安閑天皇なり、日本武尊を合祀す、天平元年の勸請と云ふ 縁起の略に曰、天平元年行基當郡行脚の時、錫を此地に駐め、金峯權現を勧請して郡中の惣鎮守とす、祭禮九月十日別當大善寺

新編相模国風土記稿

もうひとつの社は729(天平元)年に行基が開いたとされる金峯山蔵王権現です。こちらも現在はなくなっていますが、衣笠城がただのお城ではなく、山伏の山岳信仰とかかわりが深かった可能性を『神奈川県史通史編1』(p. 359)が指摘しています。

神奈川県史. 通史編 1 (原始・古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション

ちなみにふもとの大善寺も同じ年に行基が開いたと伝えられています。

3つ目のエリア

階段をさらに上ります

ゆるやかな傾斜地からまた少し上ると、頂上のような場所に出ます。ここには大きな「衣笠城址」の石碑が建っています。

大きな「衣笠城址」碑

物見岩

木がなければとても見晴らしがよさそう

碑の足元には立派な岩が。これは通称「物見岩」と言います。ここから城外の様子を見張ったと地元の人たちが考えたようです。

「衣笠城址」碑の足元に折れた石碑が埋まっていました

「岩」と読める折れた石碑もありました。おそらく昔は「物見岩」と書かれていたのでしょう。

経塚

物見岩の裏に回ると、「遺物発掘處」の碑が

衣笠城が霊山のような役目を果たしていたと考えられる理由がもうひとつ、この物見岩にあります。1919(大正8)年、地元の「三浦大介遺跡表彰会」有志がここで平安時代の遺物を発掘しました。その内訳は経筒、青白磁の唐子人形の水滴、青白磁の合子、鏡、火灯鎌、およそ五本分の刀。経筒があったことから、物見岩が経塚として使われていたことがわかったのです1

物見岩の背面。ふたつある横穴から遺物が出土したそうです

経塚とは平安時代から流行した宗教施設で、世界の終わりに弥勒菩薩がやってくるときまで地中にお経を埋めて残しておこうとするものです。当時は写経をするということが非常に徳の高い行いだとされていたので、加えてお経を数千年、数万年残しておきたいという、徳に徳を積むような行為だったとされています。

『経筒』(東京国立博物館所蔵)「ColBase」収録

物見岩の経塚から出土した経筒は「一鋳式」と呼ばれる形態で、関東に特有のものだそうです2。いっしょに出土した遺物から、この経塚は平安末期のものだろうとされています。

『水滴』(東京国立博物館所蔵)「ColBase」収録

経塚から水滴が出土するのは非常に珍しいそうです。さらにこの水滴、中国の有名な窯「景徳鎮」のものとされているそう3。高級品です。それなりに身分の高い人のものだった可能性がありますね。

平安末期と言えば畠山重忠と三浦一族が戦った衣笠城合戦があり、三浦義明が討ち死にしたとされるころ。遺物は三浦一族の内の誰かの持ち物だったのかもしれない、と思うとすこしわくわくします。

三浦一族の誰かのものだったかもしれない刀。 『刀身残片』(東京国立博物館所蔵)「ColBase」収録

経筒を始め、出土物は現在国立東京博物館が所蔵しています。何かの機会にぜひ実物を見てみたいものです。

同じ時期に造営された経塚としては横須賀市長沢にある長沢1号墳も知られています。

空堀と切り通し

岩を削って切り通したところに空堀があります

さて、物見岩から後ろを振り返ると、擬木柵の向こうになにやらスペースがあるのがわかります。よくよく見てみると岩を削って作った切り通しと、少しへこんだ通路のようなものが。おそらくはここがお城の空堀(水の入っていないお堀)だったのでしょう。

わかりにくいですが、手前の木からぐっと低くなって堀跡が見えます

不動

武芸の場、要塞としてだけでなく、信仰の場でもあったと考えられる衣笠城址。周辺にはまだまだその痕跡が残っています。最後に簡単にご紹介して終わろうと思います!

瀧不動

ここを下るともとの道に戻れます

3つ目のエリアからどんどん下っていくと、先ほど階段が分岐していたところまで下りられます。そこからさらに衣笠城址の入り口まで戻ってきました。「不動井戸」のわきには「瀧不動」という石碑が。こちらも現在はなくなってしまいましたが、昔は不動尊が祀られていたそうです。

滝不動の石碑

前不動

衣笠と大矢部の境に置かれた不動像

又此地より東方三町餘 大矢部村境に前不動と號す石像あり、

新編相模国風土記稿

衣笠城址からは少し歩きますが、バス停「衣笠城址」の近くにはもうひとつ不動像があります。「新編相模国風土記稿」によると「前不動」。現在は「矢取不動」と書かれており、こちらのほうが矢取不動なのだと思っている地元の人もいます。また、「三浦大介の不動」と呼ぶ人もいるのですが、これはよく由来がわかりません。

この場所からは大矢部・小矢部に散らばる史蹟へも歩いていけます。ぜひどうぞ。

赤星友香
赤星友香

横須賀ぷらから通信主宰。クロシェター / ライター。普段はpiggiesagogoという屋号で編み図を作ったり、別館1617という自主レーベルで本を作ったりしています。横須賀育ちの北関東在住で、わりとつねに三浦半島に行く口実を探しています。

  1. 『神奈川県史通史編1』(p. 358) ※インターネット上での閲覧には利用登録が必要です
  2. 東日本の経塚の地域性 | 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ (p.169)
  3. 『神奈川県史通史編1』(p. 358) ※インターネット上での閲覧には利用登録が必要です
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