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【馬堀海岸】ガリバーは日本に来ていた!?観音崎海沿いウォーク

令和5(2023)年大河ドラマ『どうする家康』で、めでたく三浦按針(みうら あんじん)役が村雨辰剛(むらさめ たつまさ)さんに決定しました! 

三浦按針が日本史に登場するのは慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いがあった頃。この記事を書いている頃、『どう家』の舞台はまだ秀吉も生きている天正13(1585)年頃ですが、公開される頃には出てきていますでしょうか……。

三浦按針は以前の記事でも紹介しました。

実はこの三浦按針……スウィフト作『ガリバー旅行記』のガリバーのモデルにもなっていると考えられています。

ガリバーはさまざまな架空の国を旅しますが、一つだけ実在の国に訪れています。それが日本(Japan)です。たどり着いたのは「ザモスキー(Xamoschi)」という港。まったく日本ぽくない名前で、本当に日本なのかと思いますが、実はこれ、「観音崎」筆記体表記ではないかと言われています。

上は「Xamoschi」「kannnosaki」「Kannonzaki」をそれぞれ筆記体にしたものです。似ている……かも?

「Kannnosaki」は誤字っぽいですが、「Xamoschi」と比較するときによく使われているつづりです。でも地元民としては「Kannonzaki」だよな~。こっちでも似てるよな~と思い、とりあえず3つ併記してみました。

三浦按針は、江戸幕府の外交官として、交易を求めて日本周辺の海図と書簡を送っています。もしかしたらスウィフトはこれを参考にしたのかもしれない、という説があります。

按針の手紙については過去の記事でも紹介しています。

また、ガリバー旅行記の原文には以下のような説明がなされています。

We landed at a small port-town called Xamoschi, situated on the south-east part of Japan; the town lies on the western point, where there is a narrow strait leading northward into a long arm of the sea, upon the north-west part of which, Yedo, the metropolis, stands.

Gulliver’s Travels | Project Gutenberg

「わたしたちは日本の南東地域にあるXamoschi(ザモスキー)という小さな港町に上陸した。町は西の端っこにあり、そこから狭い海峡が北に伸びる入り江へと続いている。入り江の北西にはYedo(江戸)、つまり首都がある。」というような内容です。

この北へ延びる入江が東京湾だとすると、観音崎は西の端といえるのではないか、という説も根強いです。

ちなみに観音崎には三浦義明の息子であり、鴨居八幡神社に祀られている多々良義春(たたら よしはる)の屋敷があったと伝わっていますが、どこかはわかりません。観音崎には自衛隊施設もあるので、もしかしたら立ち入り禁止エリアに遺構があったりして……。

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今回のお散歩コース

ガリバーが上陸したかもしれない観音崎を歩く - Google My Maps

というわけで、今回は観音崎バス停からぐるっと海沿いを行きたいと思います!

馬堀海岸駅の改札口を出て、湘南信金の角を右に曲がります。

突き当りに西友があり、そばに馬堀海岸バス停があります。

見切れてしまった馬堀海岸バス停

須24・馬24系統「観音崎ゆき」に乗車し、終点観音崎バス停まで行きます。ちなみにおすすめの座席は海が見える左側!

バスの車窓から見える馬堀海岸

観音崎園地

観音崎バス停を降りて、すぐ。横断歩道を渡った先にあるのが「観音崎園地」です。

この日は世間は夏休みだったため、家族連れでバーベキューをしている人が多く、いい匂いが鼻をかすめました。

奥に進むと二手に分かれています。どちらを選んでも時間的にあまり変わりませんが、左の海沿いに行ってみましょう。

潮だまり沿いを歩いて行くと階段があり、さきほどの山道へと合流します。

海岸園地

山道を少し歩いて行くと、再び海岸に出てきます。すると崖のところにポツンと小さな祠があり、よく見ると観音像が収められています。これが、観音崎の名前の由来となっている観音像です。

奈良時代、天平13(741)年の春に三浦半島の古刹ではおなじみの行基が訪れた時の事。この祠の背後にある洞窟には白い大蛇がいて、村人は困っていました。そこで行基が大蛇を退治して観音像を彫って納めたといいます。

しかし……奈良時代の像にしてはやけに新しい気も……。

それもそのはず。実はこの観音像は平成30(2018)年に復元されたものなのです!!

観音崎の観音像は過去2回失われたといいます。

1回目は鎌倉時代。建保元(1213)年の和田合戦の時、忽然と姿を消してしまったそうです。それから100年後のある夜、漁師が海が光っているのを見つけ、翌朝海底を探索すると100年前に紛失した観音像を発見しました。

やがて時がたち明治時代になると、観音崎は海軍基地となり、観音崎の観音像は鴨居に移転しました。しかし昭和61(1186)年に火事に遭い寺ごと焼失してしまいました。

以来、観音像は無くなっていましたが、平成30年に復元プロジェクトが発足し、こうして完成した新しい観音像が観音崎の海を見守ることになりました。

そして観音像の隣には東屋があります。ここにはかつて観音寺というお寺がありました。

観音寺跡

最初は観音像を祀るお堂でしたが、江戸時代になると立派なお寺となりました。明治時代に海軍基地を建てられたため、観音像ごと鴨居に移転しました。

その先には観音崎灯台へ続く階段がありますが、今回は海沿いを歩くので、真っすぐ進みます。

見てくださいよ、この絶景!

めっちゃ綺麗……。この辺りは人も少なく穏やかな入り江となっていて、岩場も少なそうです。もしガリバーが来たとしたら、このあたりに船を泊めていたのかもしれません。

さらに進むと正面に何やら怪しげな穴が……。

特に説明はなかったのですが、海軍基地の跡でしょうか……。現在、観音崎には自衛隊施設があり、ところどころ立ち入り禁止エリアとなっていますが、太平洋戦争以前は旧日本陸軍の基地がありました。観音崎の丘の上には砲台跡もいくつか残されています。

さらに奥には雰囲気たっぷりなトンネルが……。

電気はついているとはいえ薄暗く、ひんやりしています。人通りが少ないのも相まって、一気に駆け抜けました。

トンネルを抜けて、自然博物館方面へ!

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展望園地

自然博物館へ続く道を少し寄り道します。

ベンチのある広場になっています。

房総半島も目の前に見えます!

隣は観音崎自然博物館です。

自然博物館の前にバス停はありますが、日曜日の昼間に2本しかありません。もう少し歩いて行きましょう。

ロータリーを抜けると、たたら浜です。

南国でしょ、こんなの……

観音崎大橋

目が覚めるような透明度の海を堪能しつつ進むとY字路があります。最寄りバス停は右側を行くと若干近道ですが、なんだか海をもっと見たい気分だったので海側を進みます。

観音崎大橋から見る海! この透明度!!

橋の下はほぼプライベートビーチ状態ですね! ここに住んでる人うらやましい……!

観音崎大橋を渡り、突き当りを右に進むと……。

腰越(こしごえ)バス停があります。

浦賀駅行きは1時間に2本程度。時間がかかるようなら、1つ先の鴨居バス停まで行くと、横須賀駅ゆきのバスも合流するので、本数は多いです。

プラスのぷらり

浦賀駅に向かう途中、新町バス停で下車してみてください。東叶神社へ向かう途中にある須崎町内会館周辺は、ガリバーの元ネタ説もある三浦按針の屋敷があったとされる場所です。

須崎町内会館

……なぜこんなに曖昧な表現か。三浦按針が注目されるようになったのは明治時代からです。按針は江戸時代初期の人物なので明治時代の時点で200年以上経っています。記録のない200年前の人物の屋敷がどこにあったかなど、曖昧になってしまうのも無理はありません。

しかし外国人の領主様なんて珍しい人物なのに、どうして記録が残ってないんでしょうね。もしかしたら地元民からは普通の領主様ぐらい馴染んでいたのかもしれません。

遠く離れた異国の地で領主となった三浦按針は、どんな気持ちで過ごしていたのでしょうか。そんなことを青い海を眺めながら思いをはせました。

<meta charset="utf-8">樽瀬川 真人
樽瀬川 真人

三浦半島の付け根で生まれ育ち、地元の歴史を調べていたらいつのまにか鎌倉時代の三浦の海の底にいた。 

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