こんにちは。横須賀ぷらから通信主宰の赤星です。今回はタイトルの通り、1180年(治承4年)におこった衣笠合戦で使われたのではないか、と思われる道を歩いてみたいと思います。
といってもあまりかっこいい話ではないです。衣笠城から退却する三浦一族が逃げた道について考えてみたいんです。衣笠合戦、どうして退却しなくてはならなくなったの? ということについては、以前の記事をお読みください!
当時のことを物語にした『源平盛衰記』には、三浦一族は衣笠城から三々五々落ち延びた、とあります1。きっと闇夜に紛れて、目立たない道を通って逃げていったのだと思います。
アスファルト舗装の道が隅々まで行き渡っている現代だと少し想像がしにくいですが、古くからある道は今でもたくさん舗装道路になって残っています。その中から三浦一族が使ったかもしれない道を歩いてみよう、というわけなんです。
今回歩いてみたいのは衣笠城の東側にあり、三浦一族の生活の場所となっていた大矢部です。参考にしたのは「大矢部のはなし」という一連の冊子。「大矢部の歴史を楽しむ会」という地元の集まりの前会長さんが書かれたものです。
「大矢部のはなし」シリーズはたくさんあるのですが、一部は「大矢部の歴史を楽しむ会」のWEBサイトから読むことができます。また、ほとんどのものは横須賀市立中央図書館の郷土資料室に所蔵されています。
冊子のひとつに「大矢部城郭遺構」というタイトルのものがあります。衣笠城とは大矢部にあった城郭のことなのでは? という大胆な仮説を検証しているもの。
衣笠城・大矢部城説がどうだったかは現時点ではよくわかりません。そのためこの内容には踏み込みませんが、冊子の中にはほかにも興味深い仮説が。それがこの記事の目的、大矢部の古道から衣笠合戦の退路を推定してみるというものなんです。おもしろそう!
単純にまちあるきとしてもおもしろそうですが、わたしは大矢部育ちなのでなおのこと興味が湧きました。ふだん当たり前に歩いていた道、実はめちゃくちゃ古かったんだ……! みたいなことがわかってくるわけです。
ちなみに衣笠合戦は平安時代末期。現代に残っている資料は江戸時代の地図「村絵図」です。その間には700年近くの時代の流れがあります。なので1180年当時と江戸時代の道がまったく一緒だった、ということはできません。ただ、当時から20世紀半ばまで農村だった大矢部の生活道路は古代からそこまで大きくは変わっていないはず。だいたいのルートでいいので、「こんな感じの道を馬で走って行ったんだなあ」ということを感じたいなと思っています。
さて、大矢部村絵図をもとに古い道を現在の地図に描きなおしてみると、大矢部から岩戸、そして粟田から久里浜方面へ抜ける道が見えてくるとのことです。このうち粟田から久村を通って久里浜へ向かう道は、以前にうしがみさんが歩いてくれました。
そこで今回は大矢部から岩戸に抜ける古道を歩いてみたいと思います! 地元民ではありますが、わたしひとりではちょっと盛り上がりに欠けるので、「ぷらからで三浦一族といえば」の樽瀬川さんをお呼びしました。

こんにちはー。

赤星からは地元の小ネタを。樽瀬川さんからは三浦一族小ネタを紹介してもらいながら歩いていこうと思っています!
歩く前に地図を見よう
さて、出発する前に一度現在の地図をみてみようと思います。
出典:地理院地図
こちらは現在の海抜を色別に塗りわけたものです。濃い青が海抜5m、薄い青が10m。水色が50m、黄緑が100m、黄色が500mという具合です。

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけては、現在よりも海岸線が内陸に入りこんでいたと考えられています。江戸時代でも現在の5mゾーンの大半が海だったということですので、衣笠合戦のころは最大で10mゾーンくらいまで海だったと仮定して差し支えないのかなと思っています。
地図を見て気になったポイント
現在よりも海岸線が内陸にあったと考えられる衣笠合戦当時。現在では陸地になっているエリアのことを「古久里浜湾」と呼んだりします。地図を見ながら当時の状況について考えてみました。
①住吉神社

地図上の①番は久里浜に現存する住吉神社。衣笠合戦のときに敗走する三浦一族がここから房総へ船出したといわれています。地図を見ると、なんだか島っぽい?

昔は舟で参拝していたらしいですよ~。

もともと船着き場の要素があったってことですね!
住吉神社については樽瀬川さんの記事をどうぞ!
②怒田城と舟倉
②番目は怒田城のあったところ。『源平盛衰記』などの物語では、和田義盛が衣笠城ではなくこの城で相手方を迎え撃つべきだと主張したと伝えられています。

もし物語にあるように、義盛の意見を取り入れて怒田城で待ちかまえていたら、合戦の結果は変わったかもしれないですよね?

現在の地名に残るように、この場所には三浦一族の舟倉があったと考えられています。海上戦もできたかもですね!
怒田城の記事も以前に樽瀬川さんが書いてくださっています。

実利(怒田城)を取ろうとした和田義盛と、一族の誇り(衣笠城)を選んだ三浦義明。当時の状況がわかると軍記物を読む理解度がより深まりそうです!
③大津のあたり

個人的に気になったのは③番のあたり。この場所は現在の横須賀市根岸にある伝・三浦義村屋敷跡なのですが、海抜だけで見ると大津と水路でつながれるように見えます。
もしかして大津と古久里浜湾の行き来はかなり簡単だったのかも?

秩父党の江戸氏は名前の通り江戸あたりの武士ですが、当時は川崎~横浜あたりまで江戸氏の領域でした。東京湾を行き来するために舟を持っていたと思うので、三浦半島にやってくるとしたら大津からの方が入りやすいかも。そうだとしたら、三浦一族にとっては怒田城からの攻撃がしやすかったでしょうね。
④宗元寺
④番目は宗元寺跡地。現在の県立横須賀高校の敷地です。奈良時代の瓦が出土しており、創建が8世紀にさかのぼると考えられています。このあたりに当時の役所(郡家・郡衙)があった可能性が高いそう。

もしかしたら、当時は海岸線だったとか、創建時は海岸線だったとかはありそうですよね。

三浦一族は三浦郡の役人としても仕事をしていたと考えられているので、郡家に交通手段を持っていそうです。でもこっちに逃げなかったので、何か事情があったんでしょうね。
⑤佐原城・⑥ふなくぼ

⑤番目は佐原城。そして⑥番目は近世まで地元では「ふなくぼ」という小名がついていた場所です。両方とももともとは船着き場としての役割があったようなのですが、ここからも船出はできなかったみたいです。
⑦三浦氏の墓(深谷・薬王寺奥・磨崖仏)
⑦番目は大矢部の中の深谷という地域。円通寺跡や三浦一族に関係があるとされるやぐら(中世の墳墓)群があります。

長らく自衛隊の弾薬庫でしたが、横須賀市に譲渡されて公園になることが決まっています。楽しみ! ちょうど今現在(2024年8月)パブリックコメントを実施中です。
そのほか、薬王寺奥のやぐら群や満昌寺裏の磨崖仏など、大矢部の北側山すそには墳墓がいくつも見つかっています。

義明祖父さまが衣笠に留まったのは、先祖代々の墓を守りたいっていうのもあったんじゃないかなと思いますね。

現存しているやぐら群は鎌倉時代後期のものが多いようですが、衣笠合戦当時から大矢部北側の山に墳墓があった可能性はそこそこ高いような気がします!
⑧腹切り松
三浦義明の最期の地といわれているのが⑧番の腹切り松。

・先祖の墓が見える場所で腹を切った(源平盛衰記など)
・逃げる途中で討ち取られた(吾妻鏡など)
と、義明の最期については2種類の物語が伝わっています。
これから歩く推定・三浦一族の退路が山中にあるのに対し、腹切り松は川もしくは入江沿いの平場にあります。やはり開けたところを移動するのは見つかりやすく、リスキーだったのかな。

あと、腹切り松あたりから墓のある山も見えるので、ここで自害したのはある意味リアルだなとは思います。
⑨衣笠城

最後は衣笠城です。こうやって見ると奥まっている場所にありますよね。住吉神社まではかなりの距離があり、逃げるの大変そうです。
どうしてわざわざ住吉神社まで行ったのか?

住吉神社、遠いなあ! と思ったところで、当時の交通網についても考えてみたいと思います。下の地図をご覧ください!
①畠山の場所=街道を見張る?
①番目は三浦一族に対して畠山重忠が陣を張ったといわれている場所、その名も畠山。現在の横浜横須賀道路・横須賀インター裏手にあります。
山すそには推定古代東海道(江戸時代の浦賀道)が通っていること、そのまま東に向かうと宗元寺などがある推定郡衙ゾーンにたどりつくことなどから交通の要所であったと考えられます。

史料によると畠山重忠は衣笠合戦自体には間に合わず、戦後処理を担当したと考えられます。そのときにこのあたりを拠点にしたのかも。実際、畠山重忠の伝承がたくさん伝わっているんですよ。

戦となれば真っ先に押さえられそうなポイントです。古代東海道を通って逃げるのは難しそう。
②金子十郎家忠陣屋跡
②番目は山科台にある金子十郎家忠の陣屋跡。こちらも以前樽瀬川さんが訪れています。

なぜこの場所に陣を張ったのか。現在だとわかりにくくなっていますが、古い地図を見てみると興味深いことが見えてきます。

画像は明治30年代に測図された地図と現在を横並びにしたもの。現在の地図には水色や黄緑・青・ピンクの線で昔の道をプロットしてあります。
衣笠や大矢部方面から山科台を通って武方面に抜ける道があるのがわかります。これが旧三崎街道。陣屋跡はそのかたわらに位置することになります。完全に道を掌握している立地です。

民俗語彙で「たわ」は峠道のことを意味するので、山科台〜太田和にかけて主要な交通路が古くからあったんだと思います。こちらを使って西に逃げるのもできたように思いますが……。

西方面は大庭氏がいるので、逃げ道にするには危険が大きいかなと思います。
③湾内には江戸氏が?
さて、一方でがら空きに見える東側ですが、これまでの話から考えると東京湾〜古久里浜湾にはある程度兵が展開していた可能性がありそうです。

そうすると、やっぱり敵の目の届かないところまで山に隠れて移動してから海上に出るというのが妥当な選択肢だったんでしょうか。住吉神社、それにしても遠いです……。
今回のお散歩ルート
さて、そんなわけで山の中を通って久里浜方面へ逃げてみたいと思います。全部を歩ききるととても1時間では収まらなそうですので、今日は久村へ抜ける道の手前あたりまで。
「衣笠城址」バス停から歩きはじめ、まずは山沿いの道を歩きます。腹切り松をすぎた辺りから峠道に入ります。
出発!

現代ではバス停を降りると真っ平らな道が伸びています。実際は衣笠城から南側の山を通って行ったんだと思いますが、今はよい道がないのでとりあえず大通りを進みましょう!
磨崖仏に寄ってみる

さっそくですが寄り道してもいいですか? 満昌寺敷地わきの崖地に、鎌倉時代のものとされている磨崖仏があるんです。やぐらとしての機能も兼ね備えていたらしく、さっきのお墓の話にもつながるかと……。

はーい!
「湘南衣笠ゴルフ」の入口交差点を左折すると、けっこうな坂道が続いています。右手は満昌寺の墓地。
上りきったところから振り返ると、山。
磨崖仏の案内は擁壁に取りつけられています。やや死角で見落としそうな場所なので右手をよく見ていてくださいね!
擁壁の上に磨崖仏があります。だいぶ風化して薄くなってしまっているのですが、階段がついていて上れます。のぼれ……。

な、なんと! 雑草がもっしゃもしゃで上る気がおきません!

まるで鐙摺城!
ご覧になれないのも悔しいかと思いますので、以前にわたしが撮影した写真をご覧ください。2年ほど前のものです!

想像以上にうっす!!!!!!

何が何やらという風化具合です。実はこの磨崖仏、横須賀市立自然・人文博物館にレプリカが展示されていますので、そちらを見たほうがいろいろわかりやすいかも……。
山沿いの道へ
磨崖仏からまた坂を下り、満昌寺の前までやってきました! ここで道路を渡って、山沿いの道を歩いてみたいと思います。
住宅地の中を歩いていきます。細くて見通しのよくない道、いかにも古くからありそうです。
傾斜に沿って上ります。
調整池のある場所に出ました。山が迫っています。

このへんで子どものころタニシをとって遊んだ記憶があります……。ちなみに右手に見える山は「瓶塚」と呼ばれていたそうで、江戸時代の記録によると女人禁制だったとか。

道が細いし、曲がりくねっているしで、一刻一秒を争う逃走経路としてはまどろっこしいような気もします。こんな道を通ったんですねえ。

当時は街路灯もありませんし、夜に紛れていたらかなり見つかりづらそうな気がしますね。こう、手元の明かりを消して、沢沿いなら足音も消えそう。

なるほどー、水音に馬の蹄の音を紛らせるわけですね。
空き地の奥を覗いてみると階段がありました。これは横横道路のために作られた作業用通路でしょうが、こういう雰囲気で古い道もあったのではないかと思わせてくれます。
道なりに進むと清雲寺の裏手に出てきます。ちなみに清雲寺は比較的最近お引っ越しをしていて、昔は写真でいうと右手にあたる高台にあったそうです。
腹切り松から山越えの道へ
腹切り松公園の前までやってきました。

腹切り松から深谷……ギリギリ見えますね!

昔は建物がほとんどなかったことを考えると、わりとはっきり見えたんじゃないかと思います。
川沿いを進んで道を渡ります。さて、このあたりからが本題です! さらに少し進むと、小さな橋があります。

この道は遅くとも江戸時代にはできていたそう。進むと崖に沿って斜面を上り、峠越えをする道です。こちらを推定逃走経路として歩いてみたいと思います!

この写真は先ほどの地点から少し進んだところで撮ったもの。今立っている場所は小学校の通学路で、これから進む道は「学校には行けるけどおうちがある子以外は通学路として歩いちゃダメな道」です。改めて考えてみると、道が細い・やや暗い・崖沿いといかにも昔からある古い道という感じ。
突き当たりで右を見てみます。高低差がいかにも崖沿いの道です。

こっち方向に進みまーす!
目の前にめっちゃ急な坂があります。江戸時代の村絵図で確認できる道はこんな感じの超急坂だったようなのですが、現在はこの先を通る横横道路に寸断されてしまって通れなくなっています。左のちょっと緩やかなほうに進みますね。

よかったー緩やかな方!

すみません、見かけ倒しだったかも。ちょっと緩やかとはなんだったのか。

結局こうなる三浦って感じですね。
「結局こうなった」坂を上っていくとトンネルがあります。トンネルの上が横横道路。

ここはおそらく横横道路を通すために盛り土をしてあるので、もともとはトンネルじゃなくて急坂が続く感じだったんじゃないかなあと思います。

これはやはり馬が必要。

すごくどうでもいい豆知識ですが、わたしが子どものころはこのトンネル、おばけトンネル略して「ばけトン」と呼ばれていました。今はどうかな?
かっぽかっぽ、ならぬてくてくと上っていきます。
上に道が見えてきました!
上りきりました!
いきなり車がすれ違えるほど幅員が広い道路になりました。ここはここで小学校の通学路になっています。

これまでは意識していなかったのですが、ここが峠だということなんだと思います。その証拠に、ここから先は下る道になります!
写真右手は公園、その奥に町内会館があります。町内会館左手には再び車が進入できない道路が現れます。
こちらです。古道のうち、宅地として開発された峠の部分だけが車道に変わり、残りの山道は山道のまま残ったって感じですね。

ちなみにこの道、地元では「どんぐり山」と呼ばれていますが、どんぐりはあんまり拾えないです。

「昔誰かがどんぐりみたいにコロコロ転がったから」だったりして……。

小学生とか、いかにもやりそう。というか似たようなことを、近くの階段でやらかしたことがあります。
ずんずん下っていきます。左手の土地は昔梅の木が植わっていたように思うのですが、今は国有地として一時貸し出し可能の表示が出ていました。
いかにも山道な坂をずんずん下って岩戸に出てきました!

目の前のこんもりした山が気になりますが、とりあえず今回は山すそを歩きます。

まるまる太った立派な鯉! いたっけ?
これまで通ってきたのと同じ条件の道です。川があって、崖沿い。
川を渡ります。ここから先は鯉もいなそう……。

この橋を渡らずに川と平行な道を進むと満願寺にたどり着けます。が、今日はせっかくなのでより山道っぽいほうを行ってみます! とはいえきつい道ばかりだとしんどいので、少しゆるやかなほうを曲がり……

あれ?

階段を避けてスロープになっている方を選んだつもりが……。

結局階段のぼるんかい! (まさに三浦!)
やらかした! と思いましたがなんとか広い道に出ました。

道を渡ればさらに粟田の山のほうに行けそうではありますが、このへんでおとなしく現代の歩きやすい道を帰ろうと思います!

三浦一族、体力ありすぎる……。

まだ久里浜まではだいぶあります! 大変な道を逃げたんですねえ。
出てきた道は岩戸のバス通りです。坂を下りきったところで右折して少し進むと、久村方面へ抜けられる山道の入口があります。現代ではそこから久里浜駅までわりとすぐ。

闇夜に紛れて山道を住吉神社まで、と考えると、久村からまたさらにハイランドと現くりはま花の国の山を抜けて久里浜港方面へ向かったのかなあと思います。ここからあと何個山越えしたんだろう……

馬も褒めてあげたい……。
「佐原橋」バス停から帰ります
突き当たりの道を左に曲がり、佐原方面へ向かいます。ここは満願寺からの道が合流する地点。

岩戸で満願寺方面に進んでいれば比較的楽でした。すみません!
てくてくと歩き続け、佐原インター近くになってようやく標高10mほどになりました。仮にこのあたりまで海岸線だったとすると、古久里浜湾を封じられるとかなり移動が難しくなったんじゃないかなあという気がしてきますね。三浦一族、よくがんばったと思います。ぜひ逃げ切ってください!
ちなみに本日の帰り道ですが、満願寺近くで歩くのを終わりにする場合は「岩戸」バス停から北久里浜駅行きに乗れます。

赤星友香
横須賀ぷらから通信主宰。クロシェター / ライター。普段はpiggiesagogoという屋号で編み図を作ったり、別館1617という自主レーベルで本を作ったりしています。横須賀育ちの北関東在住で、わりとつねに三浦半島に行く口実を探しています。
- 『日本文学大系 : 校註』第15巻 源平盛衰記上巻,国民図書,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2024-06-13)









