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【京急大津】大津古墳群と大塚復元古墳

古代、三浦半島には古墳がいくつも作られていました。多くが山の上にあるので、近年になって改めて存在がわかったものもたくさんあります。今回は21世紀に入ってから調査が行われた「大津古墳群」と、そこから比較的近い場所にある「大塚復元古墳」のふたつを巡ってみたいと思います。

三浦半島にあるそのほかの古墳についてはほかの記事をどうぞ。

今回のお散歩ルート

大津と久里浜の古墳群 - Google My Maps

出発地点は「京急大津」駅。よこすかシティガイド協会が作成した「大津の古墳群をめぐり古の東海道を探す」コースに従って歩きます。全部歩くとちょっと長すぎるので、今回は終点を途中の「安房口神社」にしてみました。安房口神社のすぐ近くに「安房口神社前」バス停があり、ここからJR「久里浜」駅もしくは「京急久里浜」駅に行くことができます。

大津古墳群

大津古墳群は駅からすぐのところにある「大津コミュニティセンター」に隣接しています。「京急大津」駅で下車し、線路を渡ってすぐの交差点を左に曲がります。

ちょっと歩くと道沿いに建っているのが大津コミュニティセンター(コミセン)。写真に写る電柱の陰に、なにか案内が出ているのが見えるでしょうか。

大津古墳群の案内です! 「駐車場の上の尾根に3基の古墳が残っています 駐車場奥には古墳の説明板があります」とあります。髪の毛をみずらに結って勾玉をかけた、いかにも古墳に埋葬されていそうな人物がにこにことこちらを見ていますね。言われたとおり、駐車場に入ってみましょう。

ざっくりコミセンの建物と同じくらいか、それよりも低いくらいの崖があります。言われなきゃわかりませんが、この崖の上に古墳があるというわけです。

駐車場の奥には確かに案内がありました! が、下に小さく書いてある注意をご覧ください。「※詳細な説明につきましては、コミュニティセンター3階展示コーナーをご覧ください。1号墳を遠望することもできます。」とあります。……みずらさん、さっき駐車場奥に説明があるって言ってたじゃん……!

「さっきのみずらさん」

さて、悔しいのでもうちょっとじっくり古墳のあるあたりを眺めてみます。といいつつも、説明板は古墳周辺を等高線で表した地形図しか載っていませんし、見た目は見た目でただの丘です。もう少しわかりやすくしたいので、等高線の画像を地理院地図に重ね合わせてみました。

地理院地図に画像を合成

縮尺はがんばってあわせてみたのですが、間違っているかもしれませんのでご了承ください。でもこれでどういう感じで古墳が並んでいるのかなんとなく見当がついてきました。

続いては案内されたとおりコミセンの3階まで上ってみます。ロビーの一角に展示コーナーがありました。窓から見えているのが1号墳のあたりということだそうです。

展示されたパネルはぜひ現地でご覧いただきたいのですが、簡単に内容を紹介しますね。1号墳は県内最古級の横穴式石室をもつ前方後円墳で、埴輪など様々なものが出土しています。2号墳は円墳と推定されていますが未調査。3号墳はお墓として使われた形跡はないものの、祭祀に使われたと考えられる刀とやじりが出土しているそうです。

作られたのは1→3→2号墳の順番で、6世紀の終わりから7世紀の初めにかけての古墳と考えられています。

出典:地理院地図

ちなみに、古墳群がある丘のふもとあたりがちょうど標高10mくらいです。上の画像では標高10mから50mのエリアが水色で表示されています。古代は現在より海岸線が奥に来ていたことを考えると、大津古墳群はちょうど波打ち際をすぐ見おろすあたりに作られていたようです。

出典:農研機構農業環境研究部門比較地図

明治初期に作られた「迅速地図」を見ると、古墳群の間を縫うように尾根道があったことがわかります(画像の「白山社」の左脇から山へのぼる道が破線でついています)。この道がどのくらい古いかはわかりませんが、ある一定の時期までは古墳群の存在が地元の人たちによく知られていたのではないかなと思いました。実際、3号墳からは室町時代の遺物も出土したと解説にありました。

みずらさん、またね

コミセン入り口のみずらさんに見送られて散策を続けます。ロールプレイングゲームだといわゆるNPC(プログラムされた登場人物のこと)が「この村にはなになにがあって……」「どこどこへ行ってみるのじゃ」みたいなことを言ってゲームのガイドをしてくれます。たまに素直に従っていると無駄足を踏むことも。

今回の大津古墳探索はNPCことみずらさんにたらい回しにされた感がちょっとありましたが、いろいろと勉強ができたので結果オーライでした!

ちなみに、大津コミセンにはこんな感じで海に向かった窓があり、座って休憩できるようになっていました。

谷戸エリアへ

続いては大津の谷戸を通って池田町のほうに移動します。大塚復元古墳が目的地です。

大津古墳群の脇にある道を歩いていきます。ほんと、知らなければただの丘!

昔はこのあたりから上っていく道があったのだと思います。もうちょっと手前かな。

さてこちらは現代の舗装道路。しだいに道は細くなっていき、谷戸へと入り込んでいきます。こんな風にふたまたに分かれた階段はどっちに行けばいいのか迷っちゃいますね。今回は右です。

写真左へと続く階段を上っていきます。

途中振り返ると海が見えます。

階段の頂上からも海。そこそこの高低差です!

上りきった先は池田町1丁目。通称「湘南大津の丘」という住宅地ですが、昔から横須賀にお住まいの方にはぎんなん幼稚園のあるところ、といったほうがわかりやすいかもしれません。写真は幼稚園の園庭越しに眺める猿島。

向井正方夫妻墓所跡地

よこすかシティガイド協会のマップでは、ここで向井正方夫妻墓所に立ち寄ることになっています。マップの通り来てみたのですが……

あれ? 空き地?
ああっ!

昨年(2024年)6月に、墓所は馬堀にある貞昌寺に移転していました。

そもそも向井正方夫妻というのがどなたなのかというと、江戸時代の旗本です。役職としては走水・三崎奉行を務め、武士としては大津のあたりを領地としました。この場所を墓所としたのは本人たちの意向だったそうですが、なにか最近になって移転せざるをえない事情ができたのでしょうか。

墓碑は横須賀市の指定文化財になっており、市のウェブサイトにくわしい説明が載っています。

公園散策路の多い町

続いては池田町の坂道をずんずん下っていきます。一度山を下りて、そしてまた上る三浦半島おなじみのアップダウンコースです。

途中に公園があるのでショートカットがてらより道。

散策路と児童公園が無理なく同じ公園内に同居しているの、よい感じです。

谷底を少し歩き……

再び上りに。

「頭上注意!」何に注意すればよいのか今ひとつわかりませんが、真上に大きな木が生えているので枝が落ちてきたりするのかもしれません。

雑木林の間を上っていきます。

あれ、看板がいたずらされてる?

……と思いましたが、「署」のみ塗りつぶされているので違うかも。浦賀警察署が移転して横須賀南署になったので、とりあえず緊急対応としてこういう形にしたのでしょうか。

階段を上りきると通称「湘南山手」の住宅地です。こちらは同じ池田町の3丁目。

散策路のある公園があちこちにあるので、可能なかぎりそっちを通ってみます。

新津駅の雪だるま弁当のようでも、埴輪のようでもあるお顔の公園銘板

住宅街の外縁に沿って歩いてきて、池田3丁目第3公園までやってきました。奥に写っているガラス張りの建物が大塚台小学校です。もともとこの公園から小学校の敷地内を通り、大塚復元古墳まで行けるように設計されているはず。今はどうなっているでしょうか。

なかなかの高低差、そして空が広いです。

あ、なんかトトロみたいな木を見つけました!

左に進みます。

アーチの先が大塚台小学校です。が!

「授業中の通り抜けはご遠慮ください」との案内が。残念でした。でも逆に言うと夕方以降なら通っていいんですね。

大塚復元古墳

いったん公園を出て小学校前を通りすぎ、反対側から大塚復元古墳にアクセスしてみました。あった!

なにぶん古墳なもので全体像をいい感じに写すのが難しいのですが、近隣から見つかった前方後円墳をほぼ同じ形状でここに復元したものです。そこまで大きいわけではなく、古墳としてはかなり親しみの持てるサイズ感です。(とはいえ三浦半島では最大級なのだとか)

古墳に上ることもできます。置いてある石板は、ちょうどお墓として使われた場所を示しています。発掘時に木棺は残っていなかったそうですが、刀やガラス製品などの副葬品が見つかったそうです。

やや読みづらくなってしまっていますが、説明板も立っています。

復元古墳の隣にはあずまやがあります。こちらにも古墳と、近隣の遺跡についての説明がありました。

(復元)古墳を盗掘するもぐら

古墳の近くにあった案内板。説明にある周溝を模して通路が作られています。

敷地の隅っこにあった、もう文字が読めなくなってしまった案内板。画像を暗くしてみたところ、「平作川の氾濫 昭和33年9月22日」の文字が見えたので七夕水害のことを書いているようです。この水害で池田町の低地は浸水被害に遭っていますので、そのことを記録に残したのでしょうか。

七夕水害についてはこちらの特集記事もご覧ください。

古墳をぐるっと一周して、別の出入り口から出てきました。数台駐車ができる駐車場がありましたが、ふだんはチェーンを渡して侵入できないようになっているようです。

出典:地理院地図

さて、先ほどと同じように地理院地図に色をつけて見てみましょう。大塚復元古墳は「池田町(四)」の記載があるところのすぐ北にあります。実際の古墳は80mほど北東に離れていたそうです。

ここは当時、古久里浜湾に面した山の上でした。大塚復元古墳は眼下に大津港を見おろす場所にありましたが、こちらは久里浜の港を見おろす場所です。当時はそれぞれ港の支配者が別にいたのかもしれませんね。

大塚復元古墳のすぐ南は現在も「舟倉」の地名が残っています。中世には三浦一族の拠点にもなっていました。

安房口神社へ

古墳に別れを告げて、また下って上ります! 最後の目的地は池田町と吉井町のちょうど境目にある安房口神社です。

そうてつローゼンの脇を上り……

しばらく行くと安房口神社の鳥居が見えてきます。

参道は山道

安房口神社は建物がなく、地面の上に置かれた石を神体として祭祀しています。それが黒い鉄柵に囲われたもの。覗いてみた感じだと、ある程度人の手が加わって直方体に近い形状に整えてあるような印象を受けました。いわゆる磐座いわくら信仰と聞いて連想するような天然の巨石よりは現代に近そうな(勝手な)イメージ。

境内に由緒書きがありました。日本武尊やまとたけるのみことが立ち寄ったという言い伝えがあり、それでこの散策コースに関連するスポットとして選ばれたようです。

ちなみに最近読んでいる『日本神道史』で知ったのですが、国内で磐座祭祀が行われるようになったのは古墳時代のどこかと考えられているそうです。日本武尊以外に古墳と神社にはどういう関係があるのかな? と思っていたのですが、どちらも同じ時代の名残と考えるとしっくりきます。

のんびり歩いてしめて1時間半のお散歩コースでした。お疲れさまでした! 近くの「安房口神社前」バス停から「京急久里浜」駅まで帰ります。

「古の東海道」とは?

さて、参考にしたルートの、「大津の古墳群をめぐり古の東海道を探す」。古墳群はじっくりと巡ることができましたが、古東海道についてはなにも触れずに歩いてしまいました。

横須賀に8世紀まであった古東海道についてはほかの記事でもご紹介しています。

これまでの研究の積み重ねによって、奈良時代の街道は道幅が広く、まっすぐな道路だったことがわかっています。ちょうど高速道路みたいです。現代の高速道路は車がたくさん通るので維持されていますが、当時は車(やそれに類するもの=馬など)を使える人がほとんどいなかったので、庶民の生活実態に合わずいつのまにか街道は使われなくなってしまったんだそう。

ほかの地域では発掘調査によってまっすぐの道跡が発見されたりしています。でも三浦半島では古東海道がどこを通っていたのかもよくわかっていません。葉山から大津のあたりをぐーっと横断して、そのまま走水まで海沿いをまっすぐ、というのが有力説なのだそうです。

出典:地理院地図

しかしここは三浦半島。有力説で道があったと考えられるあたりにはたくさんの推定活断層があります。上の地図の黒い破線が全部そうです。実際に古地図を見比べてみると、関東大震災の前後で地形が変わっているらしい様子も観察できます。

関東大震災以前にも複数回大きな地震があったことがわかっている関東地方。たぶん古東海道のあったあたりも土砂崩れや隆起でかなり地形が変わってしまっているんじゃないかなと推測されます。

わからないながらも、仮説では今日歩いたあたりのすぐ近くを古東海道が走っていました。当時すぐ眼前にあった海と立派な街道、そして堂々たる古墳。今とはまったく違った景観があったんでしょうね。

赤星友香
赤星友香

横須賀ぷらから通信主宰。クロシェター / ライター。普段はpiggiesagogoという屋号で編み図を作ったり、別館1617という自主レーベルで本を作ったりしています。横須賀育ちの北関東在住で、わりとつねに三浦半島に行く口実を探しています。

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